民吉 幻の錦手

2014/09/01
小説家 示車右甫(じしゃ・ゆうほ)

文政元年(1818)、深川神社宮司二宮守恒は、加藤民吉の口述をもとに、民吉の焼物修業記「染付焼起原」を著した。民吉の修業先は、天草高浜焼・肥前三川内焼・同佐々村市の瀬焼、それに同有田焼であった。約三年五カ月を費やし、瀬戸へ帰国したのは文化四年(1807)六月、三十六歳のときであった。
以後、瀬戸の窯業界は民吉のもたらした染付の新技術をもって大いに繁盛し、三国(江戸・大坂・京都)随一とうたわれ、名声を博した。民吉の尾張公への献上品は褒賞され、のちに民吉は、陶祖加藤藤四郎春慶と並び称され、磁祖とあがめられた。

ここにひとつ疑問がある。民吉の染付は、三川内焼の系列をくむ、市の瀬焼の技術を継いだものである。ところが、民吉には別の念願があった。民吉は瀬戸に帰るに先立ち、わざわざ有田焼にいって、錦手の手法を究めようとしたのである。ところが有田焼の秘密主義にはばまれて会得できなかった。落胆の気持ちをかかえて、天草に立ち寄ったところ、民吉の熱意に感じた高浜焼当主上田源作によって、帰国直前に錦手の秘宝を伝授されたのである。

帰国の一年後、文化五年、上田源作は民吉に催促の手紙を出した。
「かねて思し召しの南京焼赤絵の錦手などできあがりましたか。その後どうなったか、承れずいかがと案じております。随分と御志お達しあるように祈っております」。民吉は帰国後、染付の作業に慌ただしく、錦手に手をつけられないことに、忸怩たる思いであった。「染付焼起原」の末尾に、二宮宮司の五首の詠歌がのせてある。その二番目につぎの和歌がある。

山本の梢はちりて すゑをのに
かかる紅葉の 錦手の色

これは、二宮宮司が民吉作成の錦手赤絵の磁器を見て詠じた称賛の唄と解される。残念ながら、民吉の錦手の磁器は瀬戸に現存しない。しかし、民吉の錦手にたいする思いは、どこかにうけつがれているはずである。

 明治初期、記録された「磁器製造起元」に「五彩焼付法」がある。出典が不明であるが、文中に、民吉から当代(兄)吉右衛門四代まで、今に連綿陶工たり、とあるから、錦手の手法が承継されてきたのは事実であろう。民吉の系譜としては、その弟子●(土へんに素)遷堂治兵衛親子、真陶園平助、そのグループで絵師の亀井半二、治兵衛の弟子川本伊六の系統があり、民吉の錦手の手法の命脈が、この誰かに、あるいは保たれているやも知れない。識者のご賢察ご指導を乞う次第である。

 追記
民吉の修業の過程を記した小説「天草回廊記 加藤民吉」(仮題)を来春刊行の予定であります。ご高覧願えれば幸いです。

示車右甫

※示車右甫(じしゃ・ゆうほ)・・・本名、冨永祐輔。
福岡県在住の小説家。
著書に上記作品の他、「志岐麟泉 」「対馬往還記」がある。

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