「六角陶碑」は“陶都大瀬戸”のシンボルタワー

2014/04/01
前瀬戸市文化振興財団事務局長 谷口雅夫

 そもそも建碑の発端は、窯方取締役であった加藤清助(景登)が、作事奉行の下役である細工頭味岡武左衛門より召喚があり、陶祖である加藤四郎左衛門景正の経歴について尋ねられたことにあります。このとき景登は、瀬戸の陶業は数百年来繁栄してきたばかりでなく我国陶業の起りでありながら、陶彦神社があるのみで陶祖にまつわる記念物がないと答えると、『それは遺憾の至りである。よって碑の建設を企つべし』と仰せつけられ、その費用として藩から金1000両が下賜されることになりました。

 陶製の大碑を建て、陶祖藤四郎の業績を永遠に後世まで伝えるとともに、瀬戸の名声を世に顕揚し、もって尾張藩のほまれを天下に伝えようと…、そのためには人々がビックリ仰天するような大陶碑を山麓に建てる。そして山麓に登れば、中央には瀬戸川の流れ布を曳けるがごとく、遠くは名古屋の金城をはじめ濃勢の山々まで眼下につらなり実に「村中一の名勝」と、まるで東京スカイツリーと言った具合の、ともかくシンボリックなものを計画したのです。

 藩や窯屋を取り巻く情勢は厳しかった幕末期、時代は開国により新たな展開を迎えており、まさに瀬戸の窯屋は世界を見据え、藩をも巻き込んだ大陶碑建立のビッグプロジェクトをもって“陶都大瀬戸”の意気込みを高らかに宣言しようとしたのでしょう。

『愛知県東春日井郡地誌』明治16年10月出版 小田切春江画

『愛知県東春日井郡地誌』明治16年10月出版 小田切春江画

 加藤景登らは、空前の大規模な大陶碑製作をどうするかと評議し、大物づくりの名手である加藤岸太郎に任せることになりました。岸太郎は湖東焼の彦根藩、筑前須恵焼の黒田藩に招聘されるほどの名工でした。工作にとりかかる前に、まず1/10サイズの雛形をつくりました。そして大器を焼成するための丸窯を選んで準備をし、原土をその窯内に運んで窯内でもってその形体を作って彫刻を終り、焼成した後にその窯を破壊して陶碑をとり出しました。すこぶる完全に毀損なく焼成できたのでみんなが喜びました。そして、碑棹だけでも推定2トンにおよぶ陶碑を、2週間かけてお亭山南麓から庚申山の麓までコロ引きして運び、さらにロクロ(巻上げ機)を使い山麓に引き上げました。
  慶応2(1866)年6月上旬より造り始め、途中地震の心配やら台風にあうなどの苦心を重ねながらも、慶応3年9月にようやく竣工するという、実に1年3か月を費やした大事業だったのであります。

 碑文は「陶祖伝記」などをもとに尾張藩の儒官阿部伯孝の撰文で自筆、字体は中国を代表する宋の時代の詩人・書家である蘇東坡(蘇軾)の筆遣いで碑の六面に亘っています。文字の彫りは名古屋宮町の篆刻師秋田新蔵でありました。碑棹の上頭には藤花紋章があり、棹の脚辺りには唐獅子を浮彫にしていますが、これはもと四国讃岐の高松藩士でその当時瀬戸に隠遁していた、絵画と彫像の名人であった渡辺幸平の作であります。形状については尾張藩士の小田切春江の情報により、江南市の文化財に指定されている、別名「お亀塚」と呼ばれる「小折村の富士塚」を参考にしたのではないかという説があります。このほかに、植松松蔭、鳥居重次、吉田忠恕、浅井蘇川の名前が陶祖碑に刻まれます。

  また、碑棹内の空洞には、瀬戸南新谷地蔵堂の庵主曾白尼(一説には景登の娘祖春尼)が小石を集め、これに法華経文を一石一字づつ記したのをびっしりと納めたのであります。

 明治3(1870)年8月、陶祖碑前で惣供養が盛大に行われ多くの人々が参列しました。このとき、瀬戸村の窯屋や各嶋からの寄附により、餅投げや酒が振る舞われたことが記録に残されています。恐らく、陶祖碑を囲む築地塀がこのとき築かれ、プロジェクト完成を祝ってのものと推測されます。

『尾張名所図会 下巻四』明治13年9月出版 小田切春江画

『尾張名所図会 下巻四』明治13年9月出版 小田切春江画

 4月19日(土)から6月1日(日)まで、瀬戸蔵ミュージアムで開催の「陶祖傳〜陶祖伝記とその時代〜」で詳しく知ることができます。


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