瀬戸市域の古墳と深川神社古墳について

2014/02/01
瀬戸市交流活力部文化課 佐野 元

  深川神社の拝殿・本殿への参道と、陶彦社本殿への参道との間に、こんもりとした木立の中に石柵に囲われて佇んでいる小さな塚があります。これは、古墳時代に築かれた深川神社古墳であり、南向きに横穴式石室が開口しています。これまでに発掘調査はされていないため詳細は不明ですが、石室の状況等の特徴を周囲の瀬戸市域における古墳の状況も踏まえつつ若干の紹介をします。

深川神社境内の深川神社古墳

深川神社境内の深川神社古墳

深川神社古墳の石室

深川神社古墳の石室

 瀬戸市域においては、4世紀前半の尾張戸神社古墳の築造が最初となりますが、これは市域北西端の東谷山の山頂に築かれたもので、現名古屋市側の志段味丘陵に展開していく古墳群の最初の段階の円墳でした。瀬戸市域で古墳の築造が本格化するのは、南部幡山地区の矢田川流域における5世紀終わりごろの駒前1号墳の築造、それに続く6世紀前半の本地大塚古墳の築造がその始まりと考えられます。駒前1号墳は方墳、本地大塚古墳は帆立貝形の前方後円墳で、ともに墳丘に埴輪列を巡らしています。

 6世紀前半以降矢田川流域の幡山地区東側(塚原第1号墳、宮地古墳群、吉田第2号墳ほか)と市域北西部の水野川流域北側(穴田第4号墳、荏坪古墳ほか)の各丘陵部付近に古墳が築かれるようになり、6世紀中ごろから横穴式石室が採用されていきます。瀬戸市域の古墳の横穴式石室は、畿内型(系)と北部九州型(系)のものがあり、後者のものが多いようです。前者は、近畿から伝播したタイプで、平面形が長方形で、玄室(げんしつ)(遺体を安置する部屋)の幅が羨道(せんどう)(入口と玄室をつなぐ通路)の幅より明確に広くなる「袖」(そで)をもつ形態等に特徴があります。後者は、北部九州地方より太平洋沿岸部を経由して西三河地域に広まり、隣接する尾張東部にも伝播したタイプと言われており、玄室と羨道との境に立柱石を置いて区画となしたり、平面形が胴張りであるなどの特徴をもっています。矢田川流域では7世紀中ごろまで、水野川流域では7世紀後半まで数多くの古墳が確認されており、今日まで市域で確認されている古墳は127基に及びます。

 さて、水野川流域と矢田川流域の間に位置する瀬戸川流域には、残されている古墳は深川神社古墳と、その北東側の瀬戸川支流紺屋田川東岸に立地する五位塚古墳が現存するのみです。ともに発掘調査はされていません。

  深川神社古墳は直径約9mの円墳であり、石室は、奥壁幅が1.28mで中央の最大幅が1.74mであり、平面形が若干胴の張った長方形となっています。石室入口は奥壁から手前まで4mですが、玄室と羨道との境を示す立柱石等は確認できません。本来はもう少し長く石室があったものと思われます。同時期の他の市域のほとんどの横穴式石室は奥壁に一枚岩を設置していますが、深川神社古墳は、奥壁・側壁ともに1辺50p以上の大型の石材を3段に積み重ねています。

深川神社古墳の石室内部

深川神社古墳の石室内部

 深川神社古墳は、平面形が若干胴張りをなしていることから西三河地域の影響の強い北部九州型(系)の横穴式石室とも考えられ、石室の規模や石材の用いられ方等も勘案すると6世紀後半から7世紀前半に築かれたものと思われます。現状では石室左の側壁が内側に大きく傾き、入口部分も失われた部分があり、本来の形状がすべて残っているわけではありませんが、かけがえのない非常に貴重な文化財であることに変わりはありません。瀬戸市域では、尾張戸神社古墳と尾張戸神社、山口八幡社古墳と山口八幡社、大目神社古墳と大目神社などのように、古墳のある聖域に古くからの神社等が鎮座する例も多く、深川神社の神域のルーツもこの古墳に由来する可能性は高いと思われます。

石室入口から石室内を望む

石室入口から石室内を望む

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