瀬戸洞町の功績と未来

2013/04/01 
瀬戸本業窯 水野半次郎

洞町の所在と景観

 瀬戸駅から川を上手に一キロ、瀬戸公園橋を右入ると洞町に入る。江戸中後期から昭和にかけて最もやきものを量産した町である。洞町は、東西に800メートルの谷合にある。入口に鎮座する宝泉寺より東へ、かつて栄えた一間幅の古道を行くと、土手や塀や門が、やきもので創られている風景に出合う。これらは、窯を焼くために使われた「えんごろ」「つく」「えぶた」など道具の廃材である。たかが廃材といえども、何度も何度も窯で焼かれた赤松の自然灰が釉薬のように付着した様は、やきものの究極といってもよい。この風景は、世界の窯業地にはなく、瀬戸特有のものであり、やきもののことを総称として、『せともの』と言われるようになったぐらい生産量の凄さを物語る。いつしかこれらを「窯垣」と称し、江戸から陶人達が往来した古道は、「窯垣の小径」=写真=と呼ばれるようになった。

窯垣の小径

洞町の産物と歴史

 古瀬戸天目、白天目、灰釉の器などの出土により、古瀬戸地域で焼かれた鎌倉、室町時代のやきものは、学術用語で「古瀬戸」と呼ぶように認識される。その後、桃山の戦乱期から江戸後期に至るまで、日常雑器から茶器など様々なやきものが焼かれる。その中でも、石皿、馬の目皿、柳文、笹文が描かれた器などは、洞町の特有の産物である。

 洞町の近世1800年以降の功績、分業による仕事を成しえた量産の技術は、文明開化の原動力となる。電気を運ぶための碍子、電化製品のパーツ、衛生陶器(便器、洗面器具等)、当時ジャパンマイセンといわれたノベリティ―、現在のニューセラミックスなど、実用品としての進化を成し遂げる。正に文明に貢献した産業を築き上げてきた。

洞町の町づくりの指針

 町づくりに一番参考となるのは、その町に生きづいた歴史や文化である。ほとんどの市町村が、それを掘り起こす題材がない中、洞町は有り触れた歴史、文化、風習、人間模様など贅沢な題材ぞろいである。私の父は、柳宗悦の民藝の思想論や仕事仲間である益子の浜田庄次、京都の河井寛次郎、版画家の棟方志巧など人間関係に恵まれ、物づくりの理想論に影響を受けた。私も若いながら、そんな恩恵を得る。

 学生時代は、休みになれば大分県の湯布院の亀の井別荘で居候を繰り返していた。私の母の従兄弟が、旅館の女将という縁であった。日本で町づくりという言葉が生まれたのは、50年前、湯布院が初であったと思う。ご主人は、かつての東映の助監督中谷健太郎氏。

 ここは山の中。何もないから、何もない自然の魅力、ご当地でしかない食材、武器はこれだけ。日本初の町づくりは、何もない資源から始まった。居候の身である私は、若く、何もわからないまま、夜お酒を酌み交わしながら、そんな話を客観的に聞いていた。

 いつしかそんな環境が、私を芽生えさせる。洞町の歴史、文化や功績などを風化させることなく、次世代に伝えなくてはならない。そんな思いで立ち上げたのが、洞町文化会である。この会は、やきもの関係だけでなく、育ち盛りの子供をもつ親を人選した。僧侶、商店主、サラリーマン、様々な職種の人が集まり、地域の勉強会から始めた。

 月に一度定例会を開催し、窯垣の小径を核に、将来の洞町を模索した。結論は、物づくりをした町であるから、今後も作り人の町でありたい。やきものに関わらず、木工、織り、染色など、この町は工芸の町として生きるべき、との構想に至った。研修を重ねるたび、やきもの関係者よりその他の職種の人の方が熱心な活動になる。やきもの関係者だけのマスターベーションではなく、住民の思いがやきもので生きるべき、との賛同を得るようになった。マスコミ、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などほとんど網羅し、毎年数万人の人が訪れるようになった。

 20年間意義のある活動ができても、任意団体であるがゆえ、観光案内、窯垣資料館のボランティアの方々の研修と秋の窯垣の小径祭りの事業しかできないのが現状であり、憤りを感じていた。

 私のもっと大きな構想は、東洞町の山(本業焼が育った聖地)の復元と活用が最大の課題となる。ジオラマではなく、本物の再現と実現、これを目標に集大成を築き上げたい。そんな折、たまたま観光で訪れた人と山の話をしていたら、山林関係の仕事をしている方らしく、愛知県の林務課に相談されたらよい、とのアドバイスを受けた。早速問い合わせたところ、県の事業で里山整備の対象になれば、助成金が使えるという制度があった。私としては、里山目的ではなく、それが本来の目的に繋がればとの、微かな思いであった。

瀬戸駅から歩いて20分。窯垣の小径は、外部からの観光客が最も散策に訪れ歴史や文化の宝庫であることから、県から即答で認可をいただいた。20年間は一般開放の拘束があるため、8名の地権者の承諾を得た。3年計画で事業が進む。測量、史跡、古窯の試掘調査、雑木の伐採、トイレ、東屋で助成金を使い果たすこととなった。

さて、ここまで順調にきたが、問題は、これからの管理である。とても個人の力量では無理と考え、NPO法人を立ち上げることとなった。名称は「特定非営利活動法人・やきもの文化・瀬戸洞町」と命名した。

 こんな経緯が、洞町文化会からNPO法人へ進展するも、私としては目的達成とはいえ、また余計な仕事を作ってしまった。任意団体は気楽な活動であるが、法人となると経済やら事務仕事が発生する。こんな苦痛を味わいながらも、多くの賛同を期待し、目的に少しでも近づきたく御支援やら協力していただける多くの賛助会員をお迎えしたいと切望している私である。

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