道元禅師と藤四郎

2013/02/01 
元瀬戸市歴史民俗資料館館長 山川一年

 今年も瀬戸は「陶祖800年祭」である。陶祖800年祭実行委員会(委員長 加藤庄平愛陶工理事長)は、平成24年から3年度にわたって24事業の計画を実施している。新春は瀬戸の原土を使用した「第1回瀬戸・藤四郎トリエンナーレ」で始まる。この募集展の応募者は全国から239人に及び、最年少は13歳から最年長者は79歳と聞いている。

 ちょうど100年前の明治43(1910)年に「陶祖七百年祭」が行われている。関西府県共進会が名古屋市鶴舞公園を主会場に実施された。名古屋市は「開府三百年祭」催事を大々的に行い、県内各自治体にも呼びかけた。それに共催した瀬戸町の行事であった。当時庚申山と呼ばれていた現在の瀬戸公園を整備、6月の祭典には小松原文部兼農商務大臣始め800名の来賓を招待する祭典を行っている。「藤四郎公園」と呼ばれる整備された新しい公園でその後千名余の園遊会も開かれた。この時の講演会では飛鳥井孝太郎日本陶器技術部長が「陶祖と道元禅師」、黒田正策土岐郡立陶器学校長は「陶業の改良に就いて」などを講演している。

 「陶祖七百年祭」は陶祖・藤四郎の定かでない生没年を基準としたものでも、ましてや道元に従って入宋したとされる貞応2(1223)年、帰国した安貞2(1228)年でもない。「藤四郎さんが生きた時代」程度の冠事業であった。しかし、当時の瀬戸町の陶磁器産業は隆盛の途上にあり、名古屋港の積み出し輸出額の首位を占めていたのである。だからこそ、先の飛鳥井氏は講演の中で「聰て新しい事業を起こすに就ては、新しい精神を持つという事が最も大事であります。私が道元禅師と陶祖との関係のお話に就いても、宗教でも新しい事業を起こすにも新しい精神が要るということなのです。」と繁栄の基本を説いたと思われる。(内容は「大日本窯業協会雑誌」第219号による)

 瀬戸の人達は、古くから必ずしも定かでない陶祖・藤四郎の人物像を偉大な鎌倉曹洞宗の開祖道元に重ねてきた点が多い。戦後数年間にわたって「新しい藤四郎研究」を地元新聞に連載した滝本知二氏は、出身地・戒名など30余の項目が類似しているという「藤四郎伝記は道元モデル説」を主張している。

 地方文書に宝暦2(1752)年、洞・北新谷・南新谷の窯屋組合が「瀬戸村陶祖五百回忌」を行ったことが残されている。この年は道元禅師没500年忌に当たる。その後も、昭和27(1952)年の道元禅師700回大遠忌、平成14(2002)年の750回大遠忌の年には陶祖藤四郎の同年忌が永平寺で盛大に行われたのである。春に道元禅師大遠忌を、秋に藤四郎年忌が行なわれたがこの時には瀬戸からはバス3台で関係者が参列した。私も同席したが、僧侶数十名が本堂で読経する荘厳なものであった。

 「加藤四郎左衛門景正は中国で学んだ製陶法を瀬戸に伝えた」と日本史の教科書で教えられてきた。そのお墨付きは曹洞宗の教本にあった。『禅宗史』では「承陽大師(道元)は、貞応二年(1223)二月二十一日、二十四歳で明全禅師に従い建仁寺を出て、博多に至り、前左衛門督従三位入道道正、加藤左衛門等を引具し、三月下旬商船に便乗して大宋に向い、四月初旬、浙江省慶元府に着せり。」以下の「承陽大師と曹洞宗の伝来」の章に負うところが大きい。しからば、教本がどのような根本史料に基いて編纂されたものかを明らかにする必要がある。永平寺の協力を得て、藤四郎研究を行う事も協賛事業だと思うが。

永平寺での750回忌

【写真1】=永平寺での750回忌

参列した瀬戸窯業界関係者

【写真2】=参列した瀬戸窯業界関係者

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