磁祖・民吉の修業の地を訪ねて

2012/12/01 
株式会社アイトー 会長 加藤睦彦

 10月中旬、佐世保市のハウステンボスで業界団体の会合があって出かけた後、足を伸ばして瀬戸の磁祖・加藤民吉が200年くらい前の江戸時代末期、修業に行った佐々(さざ)という町に行ってきましたので、その訪問記を記してみました。

 佐々という町は、佐世保中心地から平戸街道で北へ車で30分くらいの距離で、現在では高速道路がそこまで伸びて便利な場所になりました。人口1万人強、佐世保への合併話もあるようです。江戸時代、そこは平戸藩に配下にあって、隣の鍋島藩のもとで厳重な管理下にあった有田(伊万里)よりは管理がゆるく、しかも官窯ではなくて民窯の窯があり、そこへ尾張出身のお坊さんの紹介で修業に入ったようです。そして、3年間の修業の後、瀬戸に帰郷して、その後、さらに工夫を重ねて、新製焼といわれた磁器の製造を始め、磁祖と呼ばれるようになったのです。

 昔、佐々では、民吉のことを秘法を盗みに来た他国者として、その人形姿を串刺しにしているという噂を耳にした事があります。しかし、それはどうも、昭和の初め関西歌舞伎で民吉をモデルにした芝居があり、その中で、現地妻が瀬戸まで追いかけてきて、瀬戸で母子が池へ身を投げて心中したと創作されて劇化された時に、一緒に創作された話のようです。 

 現在では、瀬戸で民吉を祀った窯神神社の氏子さんたちは時々、佐々を訪ねていますし、数年前に行われた「民吉帰郷200年」のイベントには、佐々町町長さんが瀬戸に招かれて交友を深めています。窯神神社の年1回の例祭(せともの祭)神事の折には、佐々で作られている「民吉もなか」を取り寄せて配っているほどです。

 今回出かけて現地で案内いただいたのも、佐々駅前で「てらさき」という和菓子店を営み、「民吉もなか」も製造販売している寺崎俊男さんという方。「民吉もなか」は、もう60年前くらいから扱っているようで、親子二代に渡って、郷土史家として活動、瀬戸から出かけた郷土史家の滝本知二氏や、加藤庄三氏、正高氏の親子とも交友がある方。

 少しお店で話を聞いた後、民吉が修業した窯場の跡になる皿山という場所に連れて行ってもらいました。そこには、陶芸教室があって、その指導をしているのが、瀬戸出身の新井憲彦という方でした。その新井さんが佐々町に移り住んだ経緯はまた興味深い。30〜40年前、瀬戸のノベルティのメーカー愛新陶器が、この佐々町に西海陶芸とかいう生産会社作り運営し始めたおり、その幹部をして佐々に来たのが新井さんの父君。その後、この佐々の工場は廃業してしまったが、新井さん一家はそこに住み続け、特に新井さんは、瀬戸高校の窯業専攻科にて陶芸を学び、佐々に戻って 陶芸教室の指導員となっているとのこと。色んな縁で、佐々と瀬戸が繋がっている。

 この皿山の登り窯の跡は、史跡として上に建屋が建てられて保存措置がとられている。その地区は、屋外コンサートホールなど町民の憩いの場所にもなっていて、春には見事な桜名所になるという。その一角の一番高い場所に、高さ4m40cm四方の御影石で「佐々皿山 加藤民吉翁修業の地」という立派な記念の謝恩の石碑が立っているのです。話には聞いてみましたが、それは立派な石碑で感心しました。これは、郷土史家で瀬戸市史編纂委員だった加藤庄三氏の遺志をついで、その子息正高氏が昭和55年、私財を投じで建立されたもの。加藤正高氏は、亡父の民吉研究の原稿を編纂して刊行された「民吉街道」という私家本がある。その正高氏も今年亡くなられたが、この立派な記念碑は佐々の地に立ち続けている。瀬戸の陶業関係者は、この加藤父子に深く感謝せねばならない。この石碑を背景にして撮影したのが、添付の写真です。

 また、民吉が 帰郷した時、植えた「残心の杉」というのがあって、その説明の石碑も前に建てられていました。民吉帰郷200年の折、その杉からとられて苗木を瀬戸に持ってきて、窯神神社に植えて育てられています。

 平戸焼というのは、秀吉が朝鮮に遠征した折に、従軍した平戸の領主が連れ帰った陶工たちが、平戸の地で始めた焼き物で、その流れがこの佐々に伝わったものであろう。しかし、その平戸焼の陶業者たちも、その後、同じ平戸藩でも有田(鍋島藩)や波佐見(大村藩)に近い三川内地区に移って、現在では平戸焼は三川内地区の焼き物として伝承されている。佐々の焼き物も、恐らく民吉が来ていた江戸末期までは生産が続いていたのだが、明治以降には、より関連産業が整っている三川地へ業者や職人が移って行ったのではなかろうか。(これは筆者の勝手な推論にすぎないが)民吉が修業していた福本家の墓は、窯跡の近くにあるが、その縁者はもうこの地区にいなくて、女系の子孫が平戸に残っておられるとか。ただ、福本という姓は、三川地には多いらしいから、この福本家とつながりがあるかもしれない。

 いずれにしても、電車や飛行機もない時代、こんな遠方の地へはるばると来て、当時、新しい製造技術だった磁器の製法を学ぼうとした 磁祖・民吉の奮闘、精進には頭がさがります。「もっと我々、瀬戸の子孫もしっかりせよ」と叱咤激励されているような気がしてきた旅でした。(完)

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