木造4階建て陶器店・丸一国府商店

2012/11/02 
丸一国府商店 店主 国府浩志

「瀬戸」の景色

 昔から「せとでん」の愛称で地元の人々から呼ばれ、現在では瀬戸と名古屋を結び、通勤・通学の足となっている「名鉄・瀬戸線」の終着駅でもある尾張瀬戸駅も、かつては真っ黒な貨物列車が陶磁器の窯を焼く石炭などを運び、また瀬戸で生産された陶磁器を全国に届ける要の駅でもあった。

 この尾張瀬戸駅の目の前には瀬戸川が流れ、瀬戸の陶磁器産業が、国内外向けに活況の時期の昭和の頃は、瀬戸川も白く濁り、荒々しく流れていたのを覚えている。

丸一国府商店
現在の丸一国府商店

 現在では尾張瀬戸駅に隣接して近代的な駅前ビル「パルティせと」も建ち、瀬戸川の護岸や橋の整備も進み、川沿いの街並みも瀬戸川の流れも、とても綺麗になったものだと感じる。

 久しぶりにこの地を訪れた人には、その変わり様に驚かれる方も多く、今も昔も変わらない木造四階層(4階建て)の陶器店、丸一国府商店に面影を見付け、立ち寄り、店内でずらりと並んだ陶磁器を見ながら、昔の自分の思い出を語られる方も多い。

「せとでん」の開通

丸一国府商店

 (株)丸一国府商店の前身である「丸一商店」は、廃藩置県により犬山城に仕えていた者が、明治5年、名古屋市東区大曽根にて、繊維と印刷を営む商社として本店を構えたのが始まりでした。

 その後、明治の末に、瀬戸の陶磁器が全国に行き渡るきっかけとなった「せとでん」が開通し、日露戦争を経て、陶磁器販売の拠点を瀬戸に設け事業拡大をすることとなり、瀬戸の玄関である駅前に、土蔵造りの大きな倉庫とあわせて、当時の瀬戸では高層建築の木造4階建て商店を、瀬戸の駅前に建てたようです。

 陶磁器販売で「ひと花咲かせよう」という思惑以外にも、商家の建物に望楼も加えたのは、開業に当たって多大な資金援助を受けた犬山城主、成瀬公をはじめ、来賓をお招きして、お泊りいただく部屋であったとともに、当時の瀬戸がすでに陶磁器産業で栄え、近隣の村々を巻き込んだ広域の商業・娯楽の要の街でもあり、現在の駅前ビルのような存在にしたかったのかも知れません。

望楼のある4階建て商店

4階北側の床の間
丸窓から借景が楽しめる4階北側の床の間。

 当時の丸一商店のいきさつを知る詳細な資料は残念ながらあまり残っていませんが、当時の写真が数枚残っており、それを見ると、店内の一部サンプルルーム兼応接間は洋館風に仕立てられています。

 また、このお店の外観の特徴となっている、最上階からは、北は窯神山、東は雄大な猿投山、南は悠々と流れる瀬戸川、西は名古屋まで続く「せとでん」を、今でもかなり遠くまで見渡せ、床の間もある10畳のお部屋となっています。

 その部屋の北側にある床の間、それ自体はとても枯れた造りになっていますが、粋な仕掛けが施してあり、その「丸窓」から窯神山の景色が色鮮やかに目に飛び込み、四季を通じて「借景」を楽しむ事が出来ます。開業当時、訪れた成瀬公はじめ、来賓の方々は、この部屋から、瀬戸の街はどのように映ったのでしょう?

その後

 明治に開業した瀬戸の支店の丸一商店も、昭和になると慢性的な不況の中、番頭の一人であり、私の祖父である国府豪潔が事業を引き継ぐこととなり、戦火によって名古屋本社を消失しながらも、戦争をくぐり抜け陶磁器問屋として瀬戸の地で根付いていきました。

 その後も、「商い」においても平坦な道は無く、紆余曲折しながらも、父・国府三夫にバトンタッチ。高度成長・バブルの昭和を経て、なんとか会社として平穏を取り戻すことができ、営業を続けてこられました。

 平成には、近隣10軒を焼き尽くす大火災に巻き込まれ二階建ての倉庫を消失するも、かろうじて4階建ての商店は災禍を逃れ、営業を再開できたのものの、ほどなく目の前を通る道路の整備、拡幅の話が具体化し、100年を経た4階建ての建物を残せるかどうかの岐路に立たされる事となりました。

 私にとっては、自分の代で、建物を建て替える事は、建物の歴史を終えるとともに、丸一商店の商いの歴史を閉じる事を意味していました。

 現在は何事も無かったように、昔の姿をそのままに陶磁器販売を営めていますが、その折には多くの方々の尽力と支えがあった事を、書き加えてこの場お借りして心より感謝申し上げたい。

丸一国府商店(まるいち・こくぶしょうてん)


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