経済産業大臣指定 伝統的工芸品 瀬戸染付焼のこと

2012/09/01 瀬戸染付焼工業協同組合副理事長/染付窯屋「眞窯」窯主 加藤眞也

 今年も9月8日、9日と恒例のせともの祭がやってきます。瀬戸の窯屋は、特に染付焼を生業とする者は、特別な気持ちでこの日を迎えます。それは、言うまでもなく、瀬戸染付焼の誕生と発展に大きく貢献した磁祖と呼ばれる加藤民吉の遺徳を讃える窯神社の祭礼が執り行われるからです。
 
  私が瀬戸窯業高校生だった頃は、せともの祭の初日は短縮授業で、3年間「せともの祭には、民吉が九州に残した妻子が瀬戸へ民吉をたずねるが会うことが出来ず、悲観して雨池に身投げした妻の涙が雨となって降る」という講話を聞いた後、町へくり出したものでした。 今でもよく語られる話ですが、これは逸話で、1927年、大阪中座で上演された『明暗縁染付(ふたおもてえにしのそめつけ)』が、その後、大衆演劇などで全国各地に興行され、本来とは違う民吉のイメージが固定化されたようです。
 
  近年、民吉が九州から帰ってから200年(2008年)を迎えるのを機に、改めて民吉の功績が評価される中で、瀬戸と肥前佐々町の双方から真実が伝えられるようになり、民吉の名誉が回復されつつあります。

 瀬戸商工会議所からは、まんがで紹介した『磁祖民吉物語』が出版され、今年は市民向けに「磁祖加藤民吉はどんな人?」(特別講座)も開催されました。
 
  染付とは、白地の素地にコバルト顔料、呉須(ごす)絵具による絵付けを施し、その上に釉薬をかけ焼成したもの。(原色陶器大辞典 加藤唐九郎編)

 一般的には、磁器のものを言いますが、瀬戸染付焼では、その前身となった陶胎染付(とうたいそめつけ:陶器に染付)も含め、平成9年に伝統的工芸品の指定を受け、瀬戸市内で主に瀬戸染付焼工業協同組合の組合員を中心に生産されています。

 特徴は、天草陶石を主とした九州各地で生産されるそれとは違い、砂婆(さば)と呼ばれる風化した花崗岩に、瀬戸産の木節粘土(きぶしねんど)、蛙目粘土(がいろめねんど)を混ぜた高度化された複合造成素地で、民吉が九州へ立つ以前にすでに完成をみています。その素地の上に、山本梅逸(やまもと ばいいつ)や横井金谷(よこい きんこく)らの絵師の指導により発展した絵画的技法(染付画:そめつけが)にあります。

 この染付画は、ウィーンやパリの万国博覧会において高い評価を受け、急速に発展し、特に明治から大正にかけ大量に海を渡りました。産業革命による大量生産、大量消費時代の到来で、規格大量生産に向いていた染付焼は、様々な技術革新により、その後も昭和30年代にかけて瀬戸の焼物の主流を占めていました。
 
  その後、消費者の嗜好が多様化する中で、陶器におされ下火になっていきます。平成9年の伝統的工芸品の指定を前後して、愛知県陶磁器工業協同組合の染付講習会、瀬戸高等技術専攻科、瀬戸窯業高等学校専攻科、染付研修所などの功績で、若い人たちにも受け継がれて若い感性も加わり、新たな魅了が生まれています。

 せともの祭には、昨年から「青の広場」の名称で瀬戸染杖焼きを紹介する場が設けられ、人気を博しました。今年はさらにパワーアップして登場します。そんな事で少しずつではありますが、染付が見直され人気も高くなってきております。

「青の広場」店頭の様子
写真1

「青の広場」実演の様子
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「青の広場」体験の様子
写真3

 私事ですが、娘が昨年からいっしょに仕事をしております。韓国の陶芸を志す若者との交流から、今年の6月には、韓国で行われたお茶の祭典に若い人たちで出展し、特に染付に人気があったようです。日本へ染付を伝えた朝鮮半島ですが、その後コバルトに恵まれず、あまり発展しませんでした。そんな事もあって、今の韓国の人たちには新鮮にうつったようです。再び瀬戸の染付焼が海を渡るのも夢ではないように思います。
 
  最後に、加藤民吉はもとより、それを支えた熱田奉行 津金文左衛門、庄屋・焼物取締役 加藤唐左衛門など多くの瀬戸の先人たちと、忘れてならないのは、自分の技術は有田だけのものでなく他にも伝えたい、と勇気をもって有田を飛び出し、全国各地に磁器の製法技術を伝えた副島勇七(そえじま ゆうひち)、それに、ドイツからの近代窯学を伝えたワグネルなどの功績にも感謝したいと思います。

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