考古学研究と陶祖伝説

2012/07/01 愛知学院大学文学部 藤澤良祐

 瀬戸窯の歴史を考える上で重要なことは、当地方には古くから加藤四郎左衛門景正による開窯伝説が遺されているということである。このいわゆる陶祖藤四郎伝説は、加藤四郎左衛門景正が、貞応2年(1223)に曹洞宗の開祖となる道元に従って入宋、安貞2年(1228)に陶法の修業ののち帰国し、その後、製陶に適した土地を探し各地で試し焼きを行った末、ついに仁治3年(1242)、瀬戸において良土を発見し窯を築いたのが瀬戸焼の始まりというものである。

 この陶祖伝説が、これまでの瀬戸窯研究に大きな影響を与えていたことは事実である。例えば、江戸時代後期の松平不昧による茶入の分類・編年(窯分け)は、伝世の瀬戸茶入を陶祖とその子孫の作品として位置付けたものであったし、明治期以降の様々な研究も陶祖を中心とした歴史観によって構成されていた。また、初期の考古学的研究においても、赤塚幹也氏の工人移動論は陶祖の足跡を検証しようとしたものであったし、三上次男氏の瀬戸窯の変遷にしても陶祖の存在を意識したものであった。

 しかし、近年の分布調査や発掘調査により、瀬戸窯の成立は平安時代中頃まで遡ること、施釉陶器(古瀬戸=こせと)生産の成立は道元禅師との入宋以前まで遡ること、さらに当時の古瀬戸と中国陶磁との製作技術の差は非常に大きいことなどが次々に明らかにされ、陶祖伝説は考古学的な研究成果と相容れないところが多くなってきた。そのため、陶祖の存在はどの窯業地でも認められるとして棚上げされ、瀬戸窯の歴史を語る上であまり問題にされていないのが現状である。

 陶祖伝説は、江戸時代後期までに存在した様々な説を基に形成されたものと思われるが、江戸前期の記録には、通説とは異なる陶祖藤四郎像が認められる。寛文12年(1672)刊行の『茶器弁玉集』では、陶祖は道元禅師との入宋以前に瀬戸で生産を行っていたことになっており、また、延宝6年(1678)に赤津村を訪れた森田久右衛門は、陶工山口小左衛門から陶祖は鎌倉二・三代目頃の人であったとの話を聞いている(『森田久右衛門江戸日記』)。すなわち、これらの記録における陶祖の存在時期は、考古学研究による古瀬戸の成立時期と大旨一致しており、また、古瀬戸生産と鎌倉政権との関わりについても無視できないものである。

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