二宮守恒撰の藤四郎伝記

2012/04/01 元瀬戸市歴史民俗資料館館長 山川一年

 今年の瀬戸は「陶祖800年祭」イヤー(年)と位置づけられている。陶祖・加藤四郎左衛門景正(通称藤四郎)が話題に上るだろう。これまでの「藤四郎像」を再検証してみることは有意義なことであろう。

 深川神社祠官二宮守恒には磁祖・加藤民吉伝を撰した有名な『染付焼起原』が残されているが、実は同じ時期に藤四郎伝を記したものもある。『陶器傳記』という凡そ3千字ほどの和綴本である。今回はこの中の藤四郎伝を記した部分を紹介してみよう。

「加藤四郎左衛門春慶と云る陶工人有
譜曰加藤四郎左衛門春慶者、仁安三年生而、初久我仕官而叙従五位下、五年後辞官、四方遊歴焉、貞応年中従道元禅師入宋、台州山中陶器之制法伝之、帰朝而建長元年己三月卒、年八十
其来由を尋索るに山城国生所にて、深草山に於いて陶器を焼試る
始に小坩を作り茶入とす、然れ共いまた手練を得す口を下にして焼故に坩口兀たり、これを口兀手といふ
いまた薬石画銹をしらす、常に西土の陶器花飾あるを観て西土を慕ふの意有、八十五代後堀川天皇安貞ママ 二癸未年釈道元禅師求法の為宋国へ渡り、仏法直授伝来せんと大志を興起し、同年三月九州へ往て商船の便宜を待給ふ、四郎左衛門これを聞能折と深草郷を首途し、道元禅師の跡を慕ひ同く九州に趣き、商船に乗明州の界へ着船す、其頃西土は宋世にて、高宗帝より第四世寧宋帝の治世嘉貞十六年也、四郎左衛門宋江入(南京北京墨ケシ)陶窯ある所に順徊し、陶器製作薬石画銹其精巧を尽し、五年彼土に徘徊し、安貞元年三月道元禅師と同船し九州の地へ帰朝す、彼土にて薬石を苞にし持来り、焼試るに意に協す、故に泉州陶器村に趣き陶土と共に器物を造れ共、遂に其精巧を得す、これより四郎左衛門四方遊歴の心起て、畿内を順廻し近江国信楽の陶窯を尋ね、勢州藤方の跡を見尾張に移り、抑瀬戸村は往古より磁器瓶等を焼といへと、素より其所にて焼公用に備へ、其の余諸方へ売弘る事他国に増益す、他国陶器を焼といへと、素より其所にて焼来る陶の外焼起す事能はす、当地は埴土薬石相当し、何国にて焼弘むる器物をも模し造るりてこれを焼に、成らすと云事なし、依て日本陶器の最上とし、地名を以惣ての陶器を瀬戸物と号しけるも、又類ひなき事也、故に四郎左衛門尋来り陶工と相話し、祖母懐山沢の土を掘起し陶器を焼試るに、薬色美麗意の儘に成就しなけれは、四郎左衛門所を得たりと怡悦斜ならす、遂に瀬戸の郷に居を卜し、唐四郎春慶と称す、精巧をなし茶碗壷等を焼弘ける、後世春慶手製堅滑なる器は王公貴人の賞翫となれり、春慶瀬戸の恩沢を受ける故、深川神社へ狛犬弐隻手製し、神前へ奉献しける、其後雌犬紛失し、雄犬残りて今宝物とし神家に納有
享保年間当時茂吉と云る陶工春慶の手製を模し造り神階に備ふ
扨当地陶工等春慶の手跡を伝へ焼ける故に苗字を加藤と称し、唐四郎子孫と云伝、連綿して窯焼ける、愛度に侍る、」

 神官らしく神代の日本陶器の濫觴から説き起こし、古事記に載る神饌土器製造や行基焼のこと、深川神社のことを記す中に上記の文が載る。その後には、信長の制札や朱印状の瀬戸窯屋への下付や江戸時代の瀬戸窯業について記載されている。いずれ全文を紹介する機会もあるだろう。(原文は編集上横書き読み下し文とし、「瀬戸市近世文書集・第五集」を参考にした。原文書は尾張旭市加藤正高氏所蔵・愛知県立大学寄託)

二宮守恒撰『陶器傳記』(1)
二宮守恒撰『陶器傳記』(1)

二宮守恒撰『陶器傳記』(2)
二宮守恒撰『陶器傳記』(2)

掲載の記事・写 真・図表などの無断転載を禁止します。

著作権は深川神社またはその情報提供者に帰属します。