少子高齢化時代のマチナカの神社

2012/02/01 瀬戸ノベルティ文化保存研究会事務局長 中村儀朋(よしとも)

 冬の午後、深川神社の参道から境内をめぐり歩いた。

 私は長野県の生まれで、郷里は長野市篠ノ井。1月29日の中日新聞読書欄に今週のベストセラー第7位として、西村京太郎の十津川警部シリーズ『篠ノ井線・姥捨駅』が紹介されていた。中央線の松本駅と信越線の篠ノ井駅とを結ぶ支線の篠ノ井線は、姥捨伝説の伝わる姥捨山を通って盆地に走り下るのだが、その姥捨山のふもとに芭蕉や一茶も訪れたという名勝の棚田「田毎の月」がある。そこから善光寺平と呼ばれる盆地が一望され、その真ん中を貫いてゆるやかに流れる千曲川(ちくまがわ)が見渡せる。

 帰省する時、私は決まって、その雄大な風景を右の車窓に見遣りながら、私の精神を育んだふるさとの村を、そして、私の実家を探す。千曲川に沿って視線をタイトに辿らせ、新幹線が走る信越線の橋梁が千曲川を横切る地点が見つかると、その橋の上流側のほとりにこんもりとケヤキの巨木に囲まれた神社が探し出せる。その神社が、私が子ども時代に遊び呆けた唐根古(からねこ)神社という名の産土社だ。その神社を千曲川と隔てて守る頑丈な堤の上に立てば、正面に姥捨山がそびえ、その山並みの手前、目の前で千曲の流れが右方上流から左方下流へとゆったりとくの字に湾曲して流れ下っていく。今の私は、その千曲川とは比べ物にならないほど小さな瀬戸川を終の棲家としているわがふるさとの川と慕う私であるが、たどる記憶の中には、長野県で生まれた名唱歌「ふるさと」に唄われている“小鮒釣りしかの川”の大河・千曲川の記憶が宿っている。

 千曲川は、伊勢湾台風の時、堤の淵ぎりぎりまで水が増水して迫った恐怖の記憶が鮮やかに残り、東京オリンピックの開会式の日には、3キロほど離れた上流にある学校から土手伝いに走り帰り、神社の境内を駆け抜けて家に辿り着き、テレビにかじりついた記憶が今も鮮明に甦る。その神社の境内を囲んで立ち並ぶケヤキの大木には落雷が掘りぬいた洞があり、見上げる梢のあちこちには野鳥がかまびすしく囀り交わし、冬枯れの梢にはカラスの巣なども無数に見てとれた。私は、年中、遊び仲間とケヤキや銀杏の木々によじ登ったり、時には枝から落ちて気絶したり、野球をしたりして真っ黒になるまで境内で遊んだ。その遊びの中で、子どもたちは、年長の子から鉄拳を食らって厳しい長幼の序を教えられ、弱い子を絶対にいじめてはならないというマナーを学んだように思う。勿論、暮の年越しには決まって父や兄たちと神社に参って祖霊を尊ぶことを心に刻んで一年の無事と感謝を祈り、身を清め慎む敬虔な低頭を捧げたことは言うまでもない。

 ふるさとの神社の記憶はまだある。ある雨の日、本殿の庇の下で、映画『砂の器』にあったような、乞食の親子が雨宿りをしながら、青い煙を立ち上らせて飯を炊いていた。ある夏の夕方、地上に這い出るセミの幼虫採りに夢中になっていると、暗い境内の闇の中で、男女が抱き合って泣いているかのようなシルエットが透かし見られ、見てはならない大人の世界を見てしまった胸の高まりを抱えながら、そっと家に戻ったものの、親には黙していたなまなましい記憶も甦ってくる。

 そうした記憶を反芻しながら、「私にとって神社とは何であったろうか…」と考える時、子どもにとって、神社は何よりもまず遊び場であり、そして、身と心とを慎む厳かな聖域という二つの顔が立ち顕われる。そうした郷里の思い出にふけりながら、私が冬の深川神社で身に感じたのは、子どもたちの遊び声が絶えた境内の静けさと、その静けさをきわだたせるかのように神域の楠の木など常緑広葉樹がかさかさと乾いた葉摺れを起こす音ばかりであった。今、深川神社も含めて、神社の境内がかつての私たちの時代のように、子どもたちのにぎやかな遊び声に溢れるということはまずないであろう。子どもたちが極度に少ないからである。その代わり、行き場の見出せない高齢世代が増えているかのようだ。

 瀬戸だけのやきものと言えるノベルティ(やきもの製の置物・飾り物)の保存活動を続けている当研究会がマチナカの活動拠点を置く末広商店街にいて、私に日々強く目につくのは、好奇心旺盛でパワフルなおばさんたちではなく、特に“こころの居場所”が見出せないかのような高齢の男たちの姿である。会社人間としての人生をひとまず終えたものの、その大部分の時間を地域社会と隔絶し、自らの自立した人生観を育てることに概して無関心であったという結果でもあろう。ともあれ、まだまだ地域や社会に対して貢献できるであろうと思われる男たちが、なぜか“屈託” を抱え、何気ない挨拶も会話さえも交わすことができず、囚われの中にあるかのようなとまどいの姿を感じさせる男たちが増えているように思えるのである。

 深川神社をそぞろ歩いて思ったことがある。それは、そうした男たちの参加を促して、神社の境内をもっと高齢の人たちが集まり、より楽しめる場所にしていくといったことを試みたらどうであろうか、ということである。大工仕事の得意な男たちなら、市民活動に旺盛な諸団体の協力を得ながら、間伐材やあり余る竹材などを用いてベンチを手作りし、それを境内に配置して神社や町を訪れるお客様たちや市民に憩ってもらうこととか、「思い出のベンチ」や「わがこころの神社」などといったテーマで絵手紙や短い手紙コンクールなどを開催するとか、寒い冬には、本殿斜め前にある新社務所を開放して、「おもてなしボランティア」さんたちが瀬戸を訪れるお客さんたちをあたたかいお茶で接待するとか、あるいは、また、男たちが得意の腕を揮って境内のあちこちにある木々の梢に鳥のノベルティを吊るして、「陶都のバードウォッチング」といった粋な趣向のイベントを行うとか、桜まつりの時節には、境内に幾本もある桜の木々に、ノベルティの中でもとりわけ瀬戸らしい“磁器のあかりノベルティ”を吊るして夜桜を楽しんでもらう「陶都の花見」の趣向とか、また、暮や新年には、参道や境内の各所にある石造の献燈台にあかりのノベルティを据え、瀬戸らしい趣向により境内をライトアップするといった、やきものの町ならではの情趣豊かなイベントを試みることはどうであろうか。

透光性を特長とする磁器の性質を活かしたノベルティのあかり作品
透光性を特長とする磁器の性質を活かしたノベルティのあかり作品透光性を特長とする磁器の性質を活かしたノベルティのあかり作品

 「アトリエ参道」も、瀬戸の新しい町づくりの試みとして歓迎するのだが、もうひと工夫欲しいと思う。官主導と言える「アトリエ参道」と連動して、政教分離の原則を貫きながら、深川神社の境内奥深くにまで入り込んだ市民による手づくりイベントはできないものであろうか。「アトリエ参道」実行委員会の方々には、一宮市の真清田神社の『杜の宮市』を是非参考にして欲しいと思う。『杜の宮市』は、一宮市の地場産業である繊維産業の不振に伴って疲弊しつつあった商店街の活性化を願って始まった「真清田神社という聖域を賑わいの舞台とする」画期的なイベントである。それは、神社という存在が、昔から信仰の場であったというだけでなく、物流の場であり、人々の情報交換の場であり、出会いや再会の場ともなり、多角的な役割や機能を持つ本来の形で町の賑わいを喚起し、再生しようとする試みとして、人々の絆や紐帯、起爆剤ともなっているのだ。この『杜の宮市』は、星野さんという一人の税理士の発案により生まれ、盛況の一途をたどっており、一宮市最大の七夕まつりと並ぶ一大イベントとして、今や愛知県下では筆頭イベントとしての座を占めるに至っている。深川神社をより楽しくしようという私のこのささやかな思いつきも、実は、この『杜の宮市』に触発されての提案であることを白状しておく。

 何よりも、陶都としての活性化は、地場産業である肝心な窯業の活性化や再生策の最善を尽くしてこそのことではあろう。当会が日々行っている“瀬戸のアイデンティティを秘めたノベルティ”の再評価運動も、ノベルティを瀬戸固有の財産と位置づけて地場産業再生の糧をなんとか掴みたいと願う営為であることを訴えるものである。だから、私たちは、ノベルティやお願い狛犬だけでなく、やきものの特性を活かした手作りの「稲荷狐コンテスト」なども奉賛会の枠を超えてどんどん試みたらよいと思っている。

 高齢化時代に向き合う神社のあり方について思いをめぐらす時、「陶祖八百年祭」が計画されている今、信仰の自由という則を踏まえてのことではあるが、神社そのものが町の社会的存在として、また、陶都の宝として「市民有志のアイデアや力を呼び込みながら活性化していく」ことは意義深いことでもあろう、と思われる。境内の一角を占めるホテルや有料駐車場という課題もあろうが、ともあれ、神社が宗教法人という垣根を超え、形式や儀式の堅苦しさを超えて、瀬戸市民のこころの中に分け入り、瀬戸市民のこころの中に、より豊かでより文化的な座を占めるということが回復されてもよいように思われてならないのである。

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