第80回せともの祭

2011/09/01 元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川一年

 初秋の瀬戸を彩る最大の郷土行事「せともの祭」は今年で80回を迎えた。

 現在の陶磁器廉売市を中心とした「瀬戸物祭」は昭和7(1932)年に始まった。それ以前の窯神神社の祭礼は北新谷(きたしんがい)地区の秋葉祭として行われていたが、大正5(1916)年に瀬戸町全体の祭として9月16日に行うようになった。神事・行事も同業組合が中心となり、祭神も磁祖加藤民吉として執り行われてきた。

 郷土新聞「大瀬戸」(安藤政二郎・社主)に第1回の瀬戸物祭のいきさつが載っている。大阪から瀬戸にやってきた「金時アイスクリーム」売りの森田専治という人が「大阪横堀(瀬戸物町)のような盛大な瀬戸物祭をどうして本場の瀬戸でやらないのだ。セトモノ応用の人形を沢山飾って、その日だけはセトモノの安売りをすれば人が集る」と説いて廻った。これに共鳴した新愛知新聞(現中日新聞)の佐藤千秋瀬戸支局長が工商同業組合主催の産業祭を始めさせたという。瀬戸電気鉄道(後名古屋鉄道瀬戸線)には当日分の運賃を出資してもらって花火を打ち上げた。新愛知新聞社は瀬戸物人形コンクールを主催、有力な問屋14軒が高浜から十数人の人形師を招いて最優秀賞を競った。ライバル紙であった「名古屋新聞」も深川小学校で子ども陶芸展を主催した。瀬戸川沿いの陶磁器問屋には沢山の見本落ちや半端物があったので、番頭や小僧が小遣い稼ぎに戸板に載せた瀬戸物を店先で安売りしたところ、そうした機会の無かった当時これが売れに売れたという。その後の廉売市の始まりだった。

昭和13年のせともの廉売市
せともの廉売市(昭和13年)

 廉売市をはじめ最初の骨格が今日まで続く中で、その後消えた催事がある。今日の街角ギャラリーのはしりで、市民が自宅の庭先であるいは店の一角で思い思いの古陶磁を並べ、集印帖を持った市民がスタンプラリーよろしく一日参観して廻るものであった。この「セト古陶磁行脚帖の司催者は九秋園・矢野陶々氏、第一番陶本町の北川都留重宅から第八十番駅前町の長江範三氏宅まで「街中まるっとミュージアム」が誕生したのである。廉売市が年々盛大になっていったのに対して残念なことであった。

 戦時中一時中断していた瀬戸物祭は昭和21(1946)年すぐに復活した。名鉄尾張瀬戸駅前から深川神社参道入り口まで、瀬戸川右岸道路に廉売市が並んだが瀬戸物人形は無かった。戦後復興と直接戦災を受けなかった瀬戸の陶磁器生産の再開で、買出し客は品薄の商品を買いあさったという。当時の新聞に「まだ絶えぬかつぎ屋さん、茶碗はいいが米はいけません」と食器需要が多かったことを伺わせる。

せともの人形
せともの人形(昭和10年) 『瀬戸市史・通史編下』(撮影・伊里写真館)

 昭和28(1953)年には瀬戸物祭の華、瀬戸物人形が復活した。瀬戸物祭創始20周年にあたる年で、瀬戸駅前の「浦島太郎と亀」から深川神社参道入り口の「児雷也と蝦蟇(がま)」まで5点が出品された。展示場所は瀬戸川河川敷の仮設小屋が利用された。この年から「せともの祭」「セトモノまつり」の名称が使用されるようになった。昭和34(1959)年の市制30周年記念のせともの祭では、初めてミスセト嬢が2台のオープンカーに乗って名古屋の栄町から広小路―名古屋駅から瀬戸街道を通って祭入りしている。祭日も人出の多い土・日曜日となり、廉売市の店名に染め抜きの赤暖簾を採用したり産業祭としての性格を進化させてきた。それと同時に、市民劇「民吉オペラ」制作など様々な企画が生まれ、周辺の赤津・品野・水野地域でも一体と成ったせともの祭が企画され町全域の行事となったのである。

昨年のせともの祭の廉売市
昨年のせともの祭の廉売市

資料 『瀬戸市史 通史編下』他

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