暑い季節 瀬戸の米騒動

2011/08/01 元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川一年

 蒸し暑い夏の夜には何かが起こる。大正7(1918)年8月12日旧七夕祭りの夕刻、陶都瀬戸で日本の歴史に残る出来事が起こる。それは瀬戸の米騒動である。

 第1次世界大戦後の急速な都市の発展に対し、封建的農業生産から脱しきれない農村とのギャップが深まった。大正7年7月、シベリア出兵を見越した大地主や富商の米の買占めにより米価は高騰、1升12銭の白米は7月には40銭、8月には53銭にまで達して都市の労働者を苦しめた。7月22日夜、富山県魚津の漁師の妻女が米の県外移出が米価を上げると抗議、次第に行動もエスカレートしてついに8月3日約300人の漁師の女房中心に米屋などを襲った。これが「越中女一揆」新聞報道で全国に波及、70万人以上の暴動参加者と検挙者数万人という騒擾事件に拡大していった。

 名古屋地方裁判所資料に「予審終結決定書」(『瀬戸市史 資料編六』)が残されていてそれに詳しい。「(8月12日)午後六時頃ヨリ多数の者ハ期セスシテ同町深川神社境内ニ聚合シ、同七時頃ニハ其数約三千人ニ達シ異口同音ニ米価騰貴ニ関スル町有力者ノ措置ヲ難シ、又町内米穀商人私利ヲ恣ニスルヲ憤リナドシテ騒擾ノ端ヲ啓キ、同八時頃群衆ノ大部分ハ喚声ヲ挙ゲテ西方ニ突進」、「此ノ町ノ米穀商ノ如キ一日ニ三回モ米価ヲ上グルハ不都合ナリ」と朝日町の米穀店4軒、一方新道筋を進んだ群衆は5軒さらに洞方面で6軒、南方面では4軒を襲撃した。「十時頃、諸方面ヨリ深川神社前ニ引キ揚ゲ(前月に辞任した町長)加藤杢左衛門別宅ヲ襲ウ」とある。宮前に野営していた第6連隊が帰名、名古屋の米騒動に警察官が応援に行ってしまったその夜であった。翌日から参加者は次々取り調べを受け、結局34名が騒擾放火等で起訴(2名予審免訴)された。34名の起訴状をみると、年齢別では20代12名・30代14名が中心である。また職業別では陶磁器職人21人・運送業4人・露天商2人、その他土工・日雇い・ブリキ職人など6人となっている。為政者の驚きは大きく、町の有力者から寄付金を集めて南京米を購入、1升25銭で売ることで騒動はおさまったのであった。

米騒動を伝える新聞
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 以前、印所(いんぞ)に住みこの騒動を体験した古老から聴き取りをしたことがあった。あの騒動は特に首謀者があったわけでも、組織的でもなく付和雷同のようなものであったという。その日瀬戸には5名の警察官しかおらず、洞(ほら)の交番まで襲われる始末だったという。どういう人が逮捕されたのか尋ねると、私服の警官がリーダーとおぼしき者のシャツに青インキを片っ端から付けていて、それを目印に逮捕したという。首某者とされ長く投獄されていたOSさんとも面識があり、元の露天商に復帰していたが、常々「俺も群衆に付いて行っただけだ。今の世の中だったら当然無罪だったのに」と言っていたそうだ。

 教科書には、無産大衆の自然発生的暴動ではあったが、寺内内閣が退陣して原政友会内閣が誕生、その後の労働争議や労働組合の結成、農村の小作争議などに与えた影響は大きかったと記している。

参考文献:『瀬戸市史 資料編六 近現代2』、雑誌『風土―米騒動』

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