政治の季節

2011/03/01 元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川一年

 今年は統一地方選挙の年である。愛知県知事選挙に始まって、4月には瀬戸市の首長と市議会議員の選挙が行われる。もともと瀬戸には政治活動にたいする熱い風土性がある。長年政治活動に関わった知人から、「祭と同じ、血湧き肉踊る男の世界」と聞いた。

 政党政治が発展して地方に浸透した大正デモクラシーの時代、地域社会に深刻な政治対立が起きるようになった。瀬戸は自由党系の強い地盤であったが、「米騒動」前夜の頃から次第に政友会系の影響が強くなり、例えば瀬戸町長を選出する場合にも従来からの郷土の名士から選ぶ「名誉町長派」と域外からでも見識の高い人材を招く「有給町長派」が対立した。瀬戸高等女学校の県立移管をめぐり政友会系と立憲民政党のバトル、馬ヶ城の上水道問題でも県議・市長・市議を巻き込んで対立した。当時の地域新聞は多くの政治ドラマを伝えている。その中から今回は2人の瀬戸首長を紹介しよう。

初代瀬戸市長に成らなかった平田富資町長

 平田富資は大正時代末期の瀬戸町長である。大正14(1925)年8月25日に隣接する赤津村、旭村の一部(今・美濃池地区)を合併し、その後に県下5番目の市制を施行する準備を進めていた。ところが8月15日に未曾有の集中豪雨が瀬戸を襲い、洪水は市内の13の木橋をことごとく破損または流失させてしまった。上流に架かった刎田橋が壊れると、その丸太が下流の橋脚をまた壊すのである。大正時代に入ってこれが3度目であった。その都度下流に流された木材を拾い集めて、また架け直すのである。側近も議会もこれまでと同様にできるかぎり早く復旧して、市制準備に取り掛かるよう進言した。しかし、平田町長はそうしなかった。「瀬戸百年の計のためには何が必要か」を熟慮した。

 そして最上流の刎田橋を鉄筋コンクリートの永久橋に替えたのである。そして次々と下流の橋も架け替えていったので、その後は出水で橋脚が流失することは無くなったのである。しかしそのために多大な出費を要して庁舎の改修も後回しとなり、市制は延期されて名誉ある初代市長には就けなかった。「郷土百年の計」にコンクリートが必要な時代であった.

戦後初の民選市長と成った加藤章市長

加藤章市長 1946年に官選による最後の市長となった加藤章=写真=は翌年の公選による初代市長となった。加藤市長は戦後再刊された「瀬戸市報」の中で3回にわたって「五〇年後の瀬戸市」を執筆している。「とりとめもない空想である」とことわりながらも、一近隣町村と合併して共存共栄を図り、農業と陶磁器工業がほどよく調和した田園工業都市をめざす。

 二交通網の整備を図り、名鉄瀬戸線の多治見延長はもとより挙母(豊田)に通じる三河線とも接続する。電気事業の発達で乗り物も陶窯も電気となって瀬戸名物の煤煙も昔の夢物語となる。

 三薬研の底みたいな環境の悪い瀬戸の街を瀬戸独特の土木行政を立案して、衛生的・文化的な緑地健康住宅地帯を建設せねばならぬなどと続く。1947年には「平和の年にえがく文化瀬戸市の記念事業」として、一つは総合運動場建設、二つは公民館の建設、三つは郷土史の編纂事業を発表する。

 戦後発足したばかりの財団法人東京市政調査会に瀬戸市振興基本調査を委嘱する。1950年に答申された『瀬戸市振興に関する調査報告』は全324頁、その序文には加藤市長の思いが表れている。瀬戸市が総力をあげて取り組んだ都市診断でありその後の市の総合計画の基礎となったバイブルともなったのである。加藤市長は4期16年間、文字通り戦後の一連の民主改革と市民生活の復興期の市政に全力を尽くした市長であった。

大正12年の水害で破損した蔵所橋
大正12年の水害で破損した蔵所橋
昭和3年に新築なった蔵所橋
昭和3年に新築なった蔵所橋

(参考文献 『瀬戸市史・通史編下』)

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