磁祖民吉翁が崇拝した「風火神童君」の故郷景徳鎮を訪ねて

2010/10/01 窯神社崇敬会会長 加藤邦彦

 昨年(2009)10月、愛知県陶磁器工業協同組合の景徳鎮視察旅行に同行して、一千有余年の歴史ある瓷都を初めて訪ねました。瀬戸市の友好姉妹都市、そして陶産地としての景徳鎮については、これ迄に多くの市民も訪ねておられ、詳しい方もおられますのでそちらにお譲り致すとして、瀬戸に於いてもほとんど知られていない磁祖加藤民吉と景徳鎮の関係について書かせていたゞきたいと思います。そもそも今回の旅行に、愛陶工の組合員でもない私達が誘われたのは、民吉翁を祀る窯神々社崇敬会の一員としての立場であり、崇敬会としても以前から一度景徳鎮を訪れたいという希望もありましたので、良い機会となったわけです。

窯神々社の御神体―風火神童君

御神体の掛け軸と民吉翁の肖像
御神体の掛け軸と民吉翁の肖像

 さて、民吉翁と窯神々社については皆様方もよく御存知かと思いますが、その御神体となるといかゞでしょうか。御存知ない方が多いのではないでしょうか。「窯神々社の御神体なんぞは、どうせ鰯の頭か、そんな類の物だろう…」と思っておられる方も多いのではと思いますが、ところがどうして然にあらず、大変立派な御神体があります。

 窯神々社には、御神体として対幅の掛け軸が伝えられております。いずれにも菅原道真の末孫で、『正三位式部大輔菅原(清岡)長親(1772−1821)謹書』〔( )内は筆者加筆。民吉は1772−1824で、生まれた年が同じ〕と記されており、一方は『秋葉山大権現・天満威徳天神・金比羅大権現』、もう一方は『風火神童君』と書かれております。前者の三神は日本で古来から信仰を集めた神であり、即ち秋葉山は「火の神」として古くから瀬戸の窯屋で信仰され、天満宮は学問、技芸の上達を祈願する神であり、民吉も九州修業の折りには訪れたとも云われており、又金比羅大権現は民吉が1804年12月から1807年1月迄修業で滞在した佐々の市の瀬皿山の近くに金比羅神社があり、敬信家の民吉は朝に夕にこの神に手を合わせていたとされています。そしてこの三神は、民吉が窯神社建立を尾張藩寺社奉行所へ願い出た文書にも記されているそうですが、後者の『風火神童君』は記されておらず、又民吉の口述を記した当時の深川神社宮司二宮守恒の「染付焼起源」にも全く触れられておらず、どういう『神』なのか、翁がどうして崇拝したのか、明らかでなかったとされております。しかし長い間のこの疑問も、郷土史家の研究により古い中国の文献『陶冶図説』に載っている『風火仙師』が『風火神童君』であることが解明され、瀬戸市史第3巻(P258〜261)に詳しく記されており、今日私達はこの神の姿を知ることができる様になりました。

風火仙師―童賓

 しかしながら、2000年2月26日付とうめい新聞に掲載の「呂久老」氏の『せと私史』にも書かれております様に、近年かなりの瀬戸市民が景徳鎮を訪れる様になりましたが、この『風火神童君』についての情報がありません。実は私もこの神については窯神々社に関る様になって景徳鎮の神であることは聞いていましたが、それ以上のことは調べようともせず、前記とうめい新聞の記事でいくらか知り、その後加藤正高著「瀬戸物祭は雨になる」で読んだものゝ詳しくは記憶しておりませんでした。今回景徳鎮を訪れるにあたり、あらためて何冊かの文献や資料を引っぱり出して目を通し、景徳鎮へ旅行した何人かにも聞いてみましたが全く情報がありません。せっかく行くのなら是非とも民吉翁が崇拝した『神』を確認したいものと思い、パルティーの瀬戸市国際センターを訪ね山崎事務局次長に事情を話したものゝ、景徳鎮旅行の経験はあるとのことなれどやはり情報は皆無。余りに情報が無い為に、もしかすると『風火仙師廟』はとんでもない山奥にでもあるか、あるいは現在は存在しないのではないかとも思いましたが、それでもと思い『風火仙師廟あるいは童賓』について景徳鎮市当局に問い合わせていたゞけないかとお願い致したところ数日後電話があり、山崎氏からいくつかの資料をいたゞくことができました。その中のひとつ、景徳鎮当局からのFAX(中国語)を知人に頼んで翻訳していたゞいたものを全文紹介致します。

景徳鎮…風火仙師伝説

風火仙師 童濱像
風火仙師 童濱像

  景徳鎮の古窯磁器工場の中にある廟は『風火仙師』廟と呼ばれている。廟には、窯焼き陶工の塑像が祀られている。廟は一年中、火と煙が舞い、お供え物があふれ、祭祀する人の往来はひっきりなしに続く。窯焼き陶工の塑像は、なぜ町の人に廟を建て祭られ、祭祀参詣されているのか?

  これは歴史上でも多くみられない。もともと景徳鎮にはこんな話が伝わっている。この『風火仙師』として祭られた窯の中の人は、名は童賓(トン・ビン)又の名を広利(グァン・リ)、この町の童街の人である。

  生前は技術の高い窯焼きの陶工であった。彼の一族は磁器製作を生業とした。童賓は幼い頃より聡明でよく学び、十二、三歳ころより一人で窯を焼き、火を見る事が出来た。父親が早くに亡くなり、童賓は家を支えるには早すぎたが、家業の窯焼きを継いだ。彼の技術は熟練していて、人となりが正直で、すすんで人を助け、たとえ空腹に耐えてでも、貧しい陶工たちのために尽力した。それ故、彼は深く町の磁器を作る人の敬愛を得た。

  明朝万暦年間(注:1573−1619)皇帝は太監潘相(プァン・シァン)を景徳鎮へ徴税に派遣した。彼は町に着くと、至る所で人民の膏血を絞りとり、民間の貴重な古磁珍品を騙し取ったり力ずくで奪ったりし、陶工たちに多くの奇妙きてれつで精巧な磁器を作るよう強制し、大金を手に入れて都に戻ろうと考えた。陶工たちは、日夜休まず急いで作った。これらは造形が珍しい磁器なので、伝統的な製作方法とはまったく違い、窯を焼く火加減はとてもマスターし辛かった。毎回窯を開けて出てきた磁器は、扁平でなければ裂けていたり、そうでなければ焼きすぎだったり焼けていなかったり、終始一つも完成した磁器が焼けなかった。

  横暴な潘相は窯の磁器が物にならず、自分が金持ちになる夢が実現できないのを見て、腹を立てて怒り狂い、手に鞭を持ち、窯場で自ら現場を監視した。

  この残虐で狂暴な暴威のもと、磁工たちはあまりにも疲れた体を引きずり、窯の入り口で支えた。ある者は支えられず、地面に倒れ、再び起き上がれなかった。潘相は窯工たちの生死に関わらず、工期の制限がさらに厳しくなった。童賓は仲間が一人一人倒れるのを見て、内心非常に憤り悲しく、自ら窯を祭り、皆を救うことを決心した。潘相に対して「私は命をもって磁器をよく焼くことを保証します。あなたはすぐに陶工たちの待遇を改善する必要があり、皆を虐待する事は許しません。一人一人に毎月半斤の豚肉を配給しなければなりません」潘相は童賓が磁器を焼成する事が出来るというのを聞き、すぐに彼の出した要求に答えた。

  その後、童賓が真っ赤な窯の中に飛び込んだ。その場の窯工たちはその悲壮な光景を見て、全員悲憤の感動の涙を流した。数日後、窯を開けると、磁器はやはり焼成出来ていて、一点一点白く玉のようで、一つ一つ端正だった。

  この献身的な窯焼きを記念するために、陶工たちは彼の遺骨を町の鳳凰山上に埋葬し、彼の為に廟を建て、彫像を作り、『風火仙師』として祭った。

風火仙師廟入口 風火仙師廟本殿内部
風火仙師廟入口
風火仙師廟本殿内部

 宿泊した「開門子大酒店」21階の私達の部屋の窓からもその一帯の丘が臨め、ホテルからバスで5分程の場所にある風火仙師廟は、入口を入ると拝殿があり、その先に小さな中庭があって拝殿の左右から回廊で本殿に繋がっていました。本殿中央に風火仙師―童賓の塑像が安置され、その向かって左側に「稲妻の神」、右側に「雷の神」が従い、その手前左側面に奥から「火の神」「薪の神」「カオリンの神」、右側面に「風の神」「水の神」「鉋の神」と説明を受けた焼き物に関係する様々な神が置かれ、これらは全て風火仙師像と同じ塑像の様に見えました。

 中央の童賓像の手前に、他の塑像からは浮いて見える磁器製と思われる白い観音像が、なぜか唐突に置かれ、又中国の寺はこういう風なのか、花や小さな置物や何やかやがゴチャゴチャと置かれていました。そして黄色い衣を身に付けた僧侶が2人左右におり、これは後で知ったのですが賽銭を入れると何か渡していたそうですが、見落とされたのか、賽銭が少なかったのか、なぜか私にはくれませんでした。

  ところで前記訳文によると、先の瀬戸市史やその他の文献に書かれている内容とは細部でいくらか異なるものゝ、大筋ではほゞ一致しております。たゞひとつ、瀬戸市史によると陶冶図説には「風化仙」と記されているとのことですが、御神体の掛け軸は「風火神童君」となっており、「化」が「火」になっております。これは民吉は文字を知らなかったとされていますので、「染付焼起源」に出ている民吉が修業に行った九州各地の地名等に当て字がある様に、菅原長親が民吉の言った「フウカ」を「風火」にしたと市史の著者は推測しております。しかしながらFAXの文面、その他の資料もすべて「風火」になっており、又今回の旅行で風火仙師廟にいた僧侶に聞いてみてもやはり「風化」では絶対にないとのこと。となると「陶冶図説」が誤っていることになるのですが、その点については私の手におえる範囲をはるかに越えており、全く不明です。

  さらに又、文字の読めない、中国へ行ったこともない民吉が、どうして風火仙師という景徳鎮の神を知ったのかについて、瀬戸市史にはおゝよそ次の様に記されております。即ち、1801年吉左衛門一家は大松窯を長男晴生に任せて、次男民吉等と共に熱田の新田開発に赴きました。そこで熱田奉行津金文左衛門に見い出され、瀬戸の陶工だったことを知った文左衛門は、自らも南京焼(磁器)の研究をしていたことから民吉にその開発をさせることにしたことは周知のことです。そして文左衛門の南京焼研究の教科書が「陶冶図説」であり、そこに「風火仙師」のことが記されており、民吉はそれを聞いて知ったのではないかと推論しております。

  そして又、前述もしましたが、寺社奉行所へ社建立を申請した時に「風火神童君」を加えなかった理由について、同じく市史は、当時は切支丹弾圧の時代であり、異国の神を加えたのでは許可されないと予想したのではと推論しております。民吉が修業した九州の天草や、あるいは佐々のある現在の長崎県は、当時の日本の中ではキリスト教徒が最も多い地域であり、明治もそう遠くない幕末とは云え弾圧を逃れる隠れ切支丹も多く存在した地であり、民吉は約3年間の修業中に何度も見聞きしていたのではなかろうかと想像でき、異国の神に対して異状に神経をつかっていたのではないかと思われます。そして掛け軸を作ったにもかゝわらず、人に話すこともなく、恩人津金文左衛門直伝の神を、隠れ切支丹が密かにキリスト教を信仰していた如くに、崇拝していたのではないかと思われます。

古窯瓷廠の一郭
古窯瓷廠の一郭

 風火仙師廟は、景徳鎮の中でも最も一般的な観光地、史跡の古窯瓷廠の入口を入ってすぐの右側一郭にあり、今回訪れた時も大勢の観光客や参拝者が来ておりました。瀬戸から行かれた方々も、ほとんどの方が訪ねておられるのではと思います。しかしながら窯神々社の御神体については瀬戸の中でもほんの限られた人にしか知られていない為に、私がお尋ねした何人かの景徳鎮旅行経験者のうちのほんの一人か二人は「風火仙師伝説」については御存知でしてが、「風火神童君」とは全く繋がっておらず、ほとんどの方々が民吉の崇拝していた神がこんなところにあろうとは思いもよらず、見過ごして来られたのではないかと思われます。「風火神童君」がもっと広く皆様方に知られていたならば、訪問された方々の童賓―風火仙師に対する印象も強く、「言われてみれば何かあったなあ」程度の記憶ではなく、もっと鮮明な記憶として皆様方の中に残ったのではないでしょうか。そして姉妹都市景徳鎮に対して違った側面からもその繋がりを感じていたゞけたのではないかと思われます。

 又窯神々社崇敬会の一員としては、御神体のルーツを自らの目で確認でき、まだまだ不明な点、例えば今回は確認できませんでしたが、童賓が身を投じたことにより微妙な還元炎焼成に結びつき、焼き上がった水ガメが辰砂であったとされる説等沢山ありますが、そのいくつかは今回明らかになり、風火神童君の故郷をたずねる大変意義深い旅となりました。

※参考文献及び資料

「民吉街道」(加藤庄三著・加藤正高編・昭和57年東峰書房発行)
「瀬戸市史 陶磁史篇三」(昭和42年発行)
「不況大突破 瀬戸の民吉」(加藤徳夫著・2001年株式会社叢文社発行)
「瀬戸物祭は雨になる―郷土の先哲をたどる―」(加藤正高著・平成16年発行)
「磁祖民吉物語」(2007年瀬戸商工会議所・瀬戸キャリア教育推進協議会発行)
「とうめい新聞」(2000年2月26日付)
「瀬戸ところどころ今昔物語」(安藤政二朗著・昭和16年陶都新聞社発行)

掲載の記事・写 真・図表などの無断転載を禁止します。

著作権は深川神社またはその情報提供者に帰属します。