せともの祭と窯神社崇敬会

2010/09/01 窯神社崇敬会会長 加藤邦彦

せともの祭の起源

民吉像
窯神社にある民吉像

今月は、瀬戸市最大のイベント「せともの祭」が全市あげて開催されます。現在の姿の「せともの祭」は、昭和7年(1932)から始まり、太平洋戦争中の昭和19年(1944)とその翌年終戦の年の二回中止されたものの、毎年開催されてきました。 しかし、その起源はさらに古く、磁祖と呼ばれる初代加藤民吉(1772〜1824)の時代にまでさかのぼります。当時の祭礼は、民吉家が毎年旧暦8月20日に執り行い、巫女が鈴を持ってお神楽を舞い、民吉家の職人や北新谷(きたしんがい:現在の西谷町、窯神町、仲切町付近)の住民たちが素人相撲や佐々(笹)踊り等を行い、また民吉家の職人達が譲り受けた半端物を売ったともされています。

民吉は、死後文政9年(1826)、二代民吉により社に合祀され「丸窯神」と名付けられ、祭も「窯神祭」と呼ばれるようになりました。その後民吉家以外の窯焼達も参加するようになって、年々盛んになり、大正5年(1918)からは瀬戸町全体の祭として毎年9月16日に開催されることになりました。そして、昭和7年、当時の新愛知新聞(現中日新聞)佐藤千秋瀬戸支局長が「せともの祭」を提案、業界や関係者の賛同を得て、窯神社の祭礼の催しものとして廉売市が行われるようになり、年を追うごとに盛大になり、何度かの開催日変更を経て今日に至っております。

窯神社崇敬会の歴史

崇敬会の起源は百数十年前、三代民吉(作四郎・1845〜1900)の時代にさかのぼります。文化4年(1807)磁器製法修業を終えて瀬戸に戻った民吉は、かねてより信仰していた「秋葉山大権現、天満威徳天神、金毘羅大権現」の三神を祀るべく遥拝所の建立を尾張藩に願い出、1824年民吉の死の直前に許可が下りました。1826年初代民吉も合祀され、窯神社と呼ぶようになりました。従って窯神社は民吉家個人の社であり、祭礼も民吉家が執り行っていました。

ところが、明治維新後、三代民吉家は家業が立ち行かなくなり、窯神山の松の木を売り払ったりし、とうとう御神体の掛け軸までも川本枡吉家に質入れしてしまい、祭礼も執り行うことができなくなりました。そのため、民吉家に代わり、地元西谷集落の住民が祭礼を執り行うようになり、祭の度に御神体を借り出して祭礼を行っておりました。

この御神体は、昨年(2009年)社務所の押入れより見つかった以前使われていた箱の書付により、昭和23年(1948)川本家のご好意により窯神社に戻されたことが明らかになりました。現在は祭礼時以外は愛知県陶磁器工業協同組合に保管されています。民吉家が祭礼を行っていた頃は、仲切の泰澄院の法印が守り役でしたが、その後は深川神社宮司により神事が執り行われ現在に至っております。

そして、昭和59年(1984)、それまでの氏子組織を発展的に解消し、愛知県陶磁器工業協同組合を窯神社の代表とする会則を定め、日常的な管理、運営は「崇敬会」が行うとした組織作りを行い、新たに出発しました。現在その組織は、地元道泉連区の住民を中心に市内陶磁器関連団体を含む36名の役員で構成され、賛助会員は市内及び近隣の陶磁器及び関連企業、個人等400名程を擁しております。そして、年間行事の最大のものは当然のことながらせともの祭の祭礼であり、その他春の桜祭り等の諸行事を執り行っております。

飲水思源

民吉像
天草陶石の「飲水思源」碑

民吉は、九州での修業の際、菱野(瀬戸市)出身で、本渡(現天草市)東向寺住職の天中和尚に大変お世話になりました。昭和34年(1959)瀬戸市は、東向寺開山300年記念として「民吉翁之碑」を贈り、その返礼として当時の横山本渡市長の揮毫による天草陶石の「飲水思源」碑が贈られてきました。現在この碑は窯神社境内に設置されています。この「飲水思源」の意味は様々に解釈されるようですが、崇敬会としては「瀬戸やせとものの隆盛を思う時、民吉や翁が修業した九州の人々への感謝の思いを持つように」という格言と理解致しております。

そんな思いもあって平成12年(2000)5月、崇敬会では以前から希望のあった、翁が修業の為に訪れた九州各地への旅を、東向寺晋山式の記念に瀬戸市より贈った「天中・民吉邂逅之図」碑除幕式参列を兼ねて、「九州、民吉ゆかりの地を訪ねる旅」として実施致しました。そして、東向寺や民吉が修業した上田家のある天草、あるいは又翁が修業先の福本家を辞去する際に植えたとされる「残心の杉」が大切にされ、銘菓「民吉最中」がある佐々町(長崎県)では予想外の大歓迎を受け、翁が今も尊崇の念を持たれて生き続けている現状を目の当たりにして参加者全員認識を新たにし、たいへん有意義な旅行を経験することができました。そんな旅行の成果もあって、崇敬会は「民吉九州修業200年記念」を提案し、瀬戸市及び業界各団体の賛同のもと実行委員会が結成されました。そして翁が修業に出発して200年目の2004年から瀬戸に戻って200年の2007年までを「民吉イヤー」として、「残心の杉」苗木の境内植樹等、数多くの行事・事業が実施され、式典には民吉ゆかりの九州各地の関係者もご招待でき、200年目にして初めて全市をあげて感謝の気持ちを表すことができました。

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天中・民吉邂逅之図                挨拶される佐々町長

ところで、昭和2年(1927)に大阪中座で初演され、好評を博して各地で上演された歌舞伎「佐々の悪魔・瀬戸の窯神『明暗縁染付(ふたおもてえにしのそめつけ)』」や伝承等で、民吉は師匠の娘と結婚し、佐々に妻子を残して逃げ帰った産業スパイとされています。その為に、瀬戸においてもそんな歪められた民吉像も伝えられてきました。しかしながら、一連の「200年記念事業」によっていくらかでもそれを払拭できたのではと思われます。そして、磁祖 加藤民吉翁が、正しい姿でもって後世に伝えられていくことを切望すると共に、境内の「残心の杉」が佐々町にあるように大きく成長して、翁を偲ぶシンボルとなることを念願する次第です。

最後に、今年もせともの祭を迎えるにあたり、改めて民吉翁とその時代を生きた人々を偲び、翁の遺徳を称えると共に、「せともの」のさらなる発展を祈念致したいと思います。

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