終戦記念日

2010/08/01 元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川一年

 日本で最も長い一日であった8月のあの日から65年が経つ。

 私の実家は桑名であった。私の3代前が北伊勢から桑名市に出て、やがて近鉄の益生駅近くで和菓子屋を始めた。父の代になると、太平洋戦争の時局とて和菓子の原材料が入手できず、やむなく名古屋の軍需工場に働きに出た。昭和19年、制空権を失った日本各地の空襲が続くようになった。軍需工場や軍事施設の多かった名古屋は首都東京に次ぐ爆撃を受けるようになり、翌年3月12日に200機という空前の爆撃機が襲来した。4月7日の爆撃では名古屋城が焼失した。そして昭和20年の5月14日夜半、名古屋上空に襲来したB29大型爆撃機480機は500ポンド焼夷弾2700トンを無差別に撒き散らしたのである。その少し前に帰郷していた桑名も7月16日と24日の2度にわたる空襲によって市街地の8割が消失した。母は私を乳母車に乗せ、1歳の妹を背負って炎の中を逃げ惑った幼児体験がある。国は無謀な戦争に国民を駆り立て、戦局を見失って多くの人命と財産を失わせたのである。

 名古屋の本格的な都市爆撃が始まった昭和20年3月12日の深夜、瀬戸市民は「ドカン」という爆音にとび起きると、新開地一帯が紅蓮の炎に包まれているのを目にした。焼夷弾投下により27戸が全半焼する初の空襲であった。第1期深川神社前南北道路(現市営駐車場)の強制防火帯の建設、防空壕建設、学校校庭での防火訓練など事態の深刻さを増していた。

 戦時下の市民生活は昭和16年12月8日のアメリカとの開戦によって本格的に影響を受けるようになったが、実はそれ以前の日中戦争の頃(昭和12年)から様々な形で現れていた。陶都瀬戸の主産業であった窯業は燃料の石炭不足・諸原料急騰・労働力の徴兵により企業整備を余儀なくされ、千余の工場は百余りに圧縮された。残った工場も「金属品回収令」により金属製品を陶磁器で作る「代用品時代」でもあった。「瀬戸蔵ミュージアム」には多くの代用品が展示してある。瀬戸市歴史民俗資料館が永年に亘って収集してきたものであり、中に瀬戸の鐘大産業(大阪造幣局瀬戸出張所)で製作した「幻の一銭陶貨」もある。在野の金属品献納運動で寺院の梵鐘や仏具の供出が進み、深川神社の銅製神馬一対も昭和17年6月に供出している。

深川神社の神馬

【写真】=深川神社の神馬(昭和31年に復元奉納されたもの)

 深川神社に隣接する法雲寺に珍しい陶製梵鐘が残る。元は昭和9年に鋳造された梵鐘が同17年に供出されたため、その代用品として製造されたものであった。それには「大東亜戦争第二歳(昭和17年)国家ノ要請二従ヒ米英撲滅ノ武器製作ノ為メ第二ノ御奉公ニ応召セリ」の銘文が刻まれている。大型陶製梵鐘は全国的にも類例が無く、陶都瀬戸にふさわしい貴重な遺産である。

法雲寺の陶製梵鐘

【写真】=法雲寺の陶製梵鐘(瀬戸市指定文化財)

 8月15日、瀬戸市内各学校の校長はご真影を奉安殿から出して白羽二重に包み、市役所が出したトラック1台に搭乗、赤津の戸越峠を越えて山中の白川小学校へ疎開する日であった。「折りしも正午、天皇陛下の重大発表の放送があった。山中の谷間で感度が悪いのか、ラジオがボロなのか、はじめて聴く天皇のあの不思議な音調が緊張なさったせいか一層聴き取りにくく」(『県立瀬戸窯業高校八十年史』)。ポツダム宣言受諾、日本で最も長いあの一日、無条件降伏の日であった。現在の瀬戸市域から出征し、戦死・戦病死した御霊1780柱。そして生き残った者も、誰もが地図の無い戦後の出発点でもあった。桑名から瀬戸へ戦争疎開してきた私の家族も含めて。

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