瀬戸永泉教会の由来

2010/07/01 瀬戸永泉教会牧師 高岡清

 1858年(安政5)日米修好通商条約調印を境に合衆国からキリスト教諸教派の宣教師たちが来日した。そのひとり米国オランダ改革派のJ・H・バラは1872年(明治5)日本最初のプロテスタント教会である耶蘇公会を設立した。これに加わった植村正久、山本秀煌(ひでてる)、阪野嘉一(かいち)らは1878年(明治11)、尾張・三河地方にキリスト教を布教し1884年(明治17)日本基督一致名古屋教会(現日本基督教団名古屋教会)を建設した。1879年(明治12)名古屋での伝道で苦労していた植村正久と山本秀煌を東春日井郡中水野村(現瀬戸市中水野町)東光寺の住職、小野祖芳(そほう)が尋ね、「広く知識を世界に求め、仏教と切支丹との融和を図る」ために翌1880年(明治13)、東光寺でキリスト教講義会を開いた。これが瀬戸地方での最初のキリスト教の集会となった。
 
  折りしも1807年(文化4)加藤民吉によってもたらされた染付磁器生産が、改良に次ぐ改良で拡大の一途を辿っていた。1885年(明治18)には上水野村の民家を買い取り「永泉講義所」が建設されたが、当初、信徒らは名古屋教会に所属した。しかし1888年(明治21)志段味村と中水野村、瀬戸地区在住のキリスト信徒43名はやがて、「永泉教会」の名で教区管轄の浪花中会に請願を果し独立のキリスト教会として歩み出した。

 一方、自由民権運動が盛り上りを見せる翌1889年(明治22)には村制なった瀬戸にも信徒宅での集会が始められた。やがて薬師地区に瀬戸村講義所が建設され、信徒10数名は、2間半×5間の会堂をもって伝道を開始した。以後、中水野村での退勢に伴い1896年(明治29)11月8日に永泉教会は瀬戸に移転、瀬戸村講義所と合同し「瀬戸永泉教会」と名乗った。

 1900年(明治33)、現在地(瀬戸市杉塚町)に新たな教会堂の建設が進められ11月25日に献堂式が挙行された。この献堂には当時名古屋から東濃地方への布教を目指していた宣教師J・H・バラが徒歩により来瀬し、馬車代を建築のため献げたという。また献堂式説教にはバラ自身が立った。以後、1907年(明治40)には牧師館が建設されたが、自立が困難な状況から伝道教会に格下げされミッションの監督下に入る。1928年(昭和3)にはミッションの管轄を離れ、いったん独立に至るも、宗教団体の統制を目的とした宗教団体法に基づいて日本基督教団が成立した1941年(昭和16)に教会は解散に至った。しかし1947年(昭和22)に再び教会として設立され、輸出産業として急成長をとげる瀬戸の活気やキリスト教ブームをうけて市内外に多くの信徒を擁し、新しい文化の担い手となった。

  本会堂は1900年(明治33)の献堂、1907年(明治40)の牧師館建設、1930年(昭和5)の「建設式」(窓等を改装)、1980年(昭和55)の「建設式」(新館の建設)を経、瀬戸の町の歩みと共に今日に至っている。

 平成22年3月19日 文部科学省 登録有形文化財に指定

瀬戸永泉教会

【写真】=瀬戸永泉教会礼拝堂


瀬戸永泉教会:愛知県瀬戸市杉塚町5
ホームページ:http://www11.plala.or.jp/eisen/


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