深川神社と藤四郎(3)

2010/06/01 瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会長 加藤恬

 瀬戸の窯屋中で藤四郎の500回忌法要をおこなった同じ年、宝暦2年(1752)、尾張藩は「張州府志」という地誌を刊行した。全て漢文で記してある。この内、人物編の中で、加藤藤四郎春慶を次のように述べている。漢文を読み下すと下記のようになる。

 瀬戸村ノ人。カツテ道元和尚二従ヒテ宋二入ル。陶器ノ法ヲ伝ヘテ帰朝ス。瀬戸村二住シテ陶窯ヲ開ク。面今(じこん−この後)、瀬戸・赤津瓷器(しき−きめの細かい陶器)
ヲ製スル家、多クハ加藤ヲ称ス。皆、春慶ノ裔(えい一子孫)ナリ。土産、祖母懐ノ坏土
(はいど一陶器用の土)、瀬戸村ヨリ出ヅ。陶家ノ用フル所ノ坏土ナリ。今、官禁(藩より勝手に掘ってはならないと言う禁止通達)有リ。伝ヘテ日(いわ)ク。藤四郎の祖母、山野ヲ巡行シ、雨池ノ洞二於イテ此ノ土ヲ得タリ。之ヲ懐ニシテ帰ル。故二之二名ヅク。

 「張州府志」は尾張藩8代藩主、徳川宗勝の命によって編纂された地誌である。藤四郎を担当した藩士は、当然ながら瀬戸へ来て取材して書いたに違いない。上記の藤四郎の人物像は、当時の瀬戸村の人々の共通した認識であったと推測される。その後も藤四郎のことをいろいろと書き表す人物はいた。

 そして瀬戸村の人で初めて藤四郎のことを書いた人物が現われた。その人とは深川神社の15代宮司、二宮守恒である。彼は当時、瀬戸随一の知識人であり学者であった。寛致5年(1793)から文政元年(1818)にかけて著わした3冊の書物(「陶器窯伝記」「陶窯伝記」「瀬戸考略記」)の中で藤四郎について次のように書き記している。要約すると、藤四郎は生まれた山城国で、陶器を焼いていたが、瀬戸へ移り住んできた。瀬戸ではすでに陶器が盛んに焼かれていたので、藤四郎は瀬戸の陶工たちと語り合うなかで、祖母懐土を見つけ、瀬戸で本格的に陶器製作に打ち込むようになった。藤四郎の焼き物の素晴らしさを見て、瀬戸の陶工たちは瀬戸焼きの元祖として尊敬するようになった。と、述べている。

 このように守恒は、藤四郎が陶工たちから瀬戸焼きの元祖と称賛されるようになったと、高く評価している。その結果、彼の強い発意と瀬戸中の窯屋の協力もあったのであろう。藤四郎を瀬戸窯の神として祀る陶彦神社が、深川神社境内に摂社として、文政7年(1824)建立されたのである。この神社の建立以来、毎年4月には藤四郎まつりが実施されるようになったと考えられる。

15代宮司、二宮守恒

【写真1】=15代宮司、二宮守恒

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