深川神社と藤四郎 (2)

2010/03/01 瀬戸・尾張旭郷士史研究同好会長 加藤恬

 鎌倉時代(13世紀)、宋(中国)へ渡り焼き物の技術を修得して帰国後、瀬戸で良質な陶器を生産し、瀬戸焼きの祖と仰がれるようになった藤四郎ではあるが、当時の正確な史料は未だ発見されていない。

 史料で藤四郎が最初に登場するのは15世紀末から16世紀の初めである。このころ、春日井市の円福寺へ寄進された品物の中に、「藤四郎焼茶碗」という記述がみられる。したがって16世紀の前半には藤四郎の存在が確認できるわけである。

 その後、江戸時代にはいると藤四郎の名が再び登場する。寛文12年(1672)、京都で刊行された画人と茶人のための解説書「花器弁玉集」には「藤四郎は茶入れ作りの名人」と紹介されている。藤四郎作とされる茶入れは、茶の湯が流行する室町時代以降、茶人のあいだで貴重品扱いにされていたようである。

 同じころ、土佐・尾戸焼きの祖である森田久右衛門が、土佐から江戸への旅の途中に瀬戸の赤津へ訪れた。そのとき、赤津の窯屋の主は、「私は藤四郎の手筋の者であり、瀬戸焼きは藤四郎が根元である。但し450年も前のことで、鎌倉の2、3代目の事である」という主旨のことを述べたと、旅日記に記している。

 ここで注目すべきことは、窯屋の主が「藤四郎の手筋の者、瀬戸焼きは藤四郎が根元」と言ったという事実である。手筋は血筋ではない。手筋は技の繋がりであって血の繋がりではない。当時の陶工たちは藤四郎の存在を意識して、作陶技術の伝統を受け継いでいたものと思われる。したがって、瀬戸地域の人たちは、連綿として鎌倉時代に藤四郎なる偉大な先覚者が存在していたことを語り継ぎ、受け継いできたわけである。

 その後の瀬戸窯は、尾張藩の援護もあって急速に発展する。瀬戸窯に携わる人々の藤四郎に対する尊敬の念は次第に大きくなっていったことであろう。このことを証明する史料が残されている。それは宝暦2年(1752)、瀬戸の窯屋中で藤四郎の500回忌法要を執り行っているのである。その記録を現代的表記にすれば下記のようになる。

宝暦2(1752)年壬(みずのえ)申(さる)8月5日
加藤藤四郎様の500回忌法要を行いました
法要や仏事を瀬戸窯を営む下記の仲間中で行いました

南島(瀬戸川の南の地域)の窯仲間連中
洞島の窯仲間連中
北島(瀬戸川の北の地域)の窯仲間連中

以上、3島の窯焼きを営む窯仲間連中が相談して、500回忌法要を全て行いました

藤四郎窯址

【図】=藤四郎窯址(尾張名所図会より)

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