師走3題

2009/12/01 元瀬戸市歴史民俗資料館長 山川一年

 あわただしい年の瀬を迎えた。昔からこの時期は、一年の総決算としての納めの行事、 新年を迎える正月の準備が行われてきた。瀬戸地方でもまず煤払いと墓掃除を最初に行った。「煤掃(すすは)きと餅搗(つ)きは行わぬ家なし」といわれていた▼餅つきは苦餅(苦持)といって29日をさけ、28日か30日についた。どこの家も10臼はついていた。鏡餅は農家では鍬、窯屋ではロクロなど道具洗いをした後に供えた。床の間のオカガミの他、井戸・台所・便所など普段お世話になっている所にも供えた▼年末には門松立てを行ったが、この地方には「撒(ま)き砂」の風習があった。カド庭に砂で日の出を描くことで、山口ではオコズナ、上半田川ではスナマキと呼んでいた。注連縄(しめなわ)を飾り、新年の年神さまを迎える依代(よりしろ)なのである▼「師走」は「仕極(は)つ」からきたと民俗学ではいう。農耕民族であった日本の文化は終末(収穫)と再生(播種)で成り立っている。煤払いは無用で、餅は一年中あふれている現代日本はあらゆる部分でけじめを欠いている▼暗い世相の1年間だったが、それでも来年こそは良い年であることを願う。貴家のご繁栄をお祈り申し上げます。(05年師走記)

 瀬戸地方にはかつてデガワリと言う習俗があった。暮の12月25日は窯屋で働く職人たちも契約更改の日であった。翌年の再雇用の確認と賃金アップの駆け引きがこの日に行われたのである▼瀬戸の窯屋には常雇のモロ衆も居たが、ロクロ師・絵描き・焼き手など窯屋を渡り歩く職人もたくさん居た。カマグレなどといわれ、歩合制で働く職人であった。デガワリ近くになると仕上げの数を落として賃上げを訴え、窯屋の大将も心得て賃金を決めたという▼腕のいい職人は手放したくないので、この日に「前金」を渡して縛りつけた。これが結構な金額で、大正時代の頃には10円、米騒動の頃は20円、30円あった。モロ衆の賃金が3日で1円の時代である。これを毎月5円くらいずつ返す(無利子)のである▼目出度く手打ちということになれば、デガワリゴモ(五目飯)で一杯呑みになる。窯元からはオシキセといって、小僧には新しいハンテン、職人にはアサブラ(草履)や着物などが支給された▼正月前の年末は、この一時金をつかんだ職人で商店街や花柳街が賑わった。瀬戸は尾張の小江戸、「瀬戸へ行かんでどこへ行く」といわれた時代である。(04師走記)

 今年は瀬戸市制施行80年にあたるということで「市制80周年記念」という冠行事が続いた。瀬戸が市制を敷いたのは昭和4年10月1日、名古屋・豊橋・岡崎・一宮市に次ぐ県下5番目の都市であった。一宮の繊維産業、瀬戸の陶磁器産業が愛知県下の基幹産業であり、両市の都市力の基盤であったことが分かる▼ところが、瀬戸市の市制直後に現在の不況と同じようなアメリカ発の世界大恐慌に突入する。瀬戸市のその年の陶磁器生産額は1」068万円(全国比15パーセント)で日本最大の陶都であったが、生産の60パーセントを輸出するという 産業構造であったから不況は町を直撃することとなった。日本が対アジア進出による不幸な「15年戦争」への歴史に瀬戸も組み込まれたのである▼瀬戸市の80年間のあゆみを振り返るとほぼ15年きざみで括れるように見える。品野町までの周辺町村を合併して現在の市域を確立した「戦後復興の時代」、巨大都市名古屋の影響を受けて大きな変革をとげた「高度成長下の都市化の時代」、そして「安定経済成長下で都市機能を整備した時代」である▼来年の「高島暦」には「昨年の経済混乱が本年も尾を引く。社会的には、国が何をしてくれるかではなく、自分が何ができるかを考える人が増している。社会が変わるという卦がある」という希望も見出した師走である。(09師走記)

陶のあかり路

【写真】=12月に開かれる瀬戸市の冬イベント「陶のあかり路」。全国公募による陶磁器やガラスの明かりアート作品100点以上が、市中心部の瀬戸川沿いに約2週間展示される。今年で3回目。市民投票で優秀作品を決める。

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