「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
今日は、朝から風が強く、風花がちらちらと舞う寒い日でした。夕方からは、一時かなりの勢いで降り注ぐ雪は、冷え切った梢を白く染めていきました。
昨日、今日は、アルジェリアでの紛争の巻き添えで不幸にも亡くなられた方が、御遺体となり帰国されました。犠牲者のお一人で被災地南三陸町ご出身の方のご高齢のお母様は、津波で家を失い仮設住宅にたった一人で暮らしていらっしゃる、そこへ、この悲惨な事件が起こり息子さんにも先立たれる、第三者の者でさえ「この世の中に、神も仏もいないのか」と思わずにはいられません。
神職という立場でご奉仕する私自身、きっと神様がお守りくださる、と胸を張って言い切れるようなものではない現実です。
この瀬戸市でも、1月15日の寒い朝、凍結した橋の上でのスリップ転落事故で尊い命を落とされた方がいます。実は、この方の会社の安全祈願祭をちょうど一週間前に執り行っております。この事故を知って、私は、どうしようもない無力感、虚しさに襲われました。一体何を神様に祈ったのか、と愕然としました。もちろん、私自身が神となり人を守ることなどできませんし、そんな超越した能力があるわけでもありません。
神職は、ただ神様と皆様の仲をとりもつ「なかとりもち」でしかありません。また、八百万の神様の中には、悪いことをおこす「禍神」(まがかみ)もいらっしゃいます。ですから、神主は、その禍神の禍がないように、どうかお守り下さい、と祈念するわけです。念ずる私の気が足りなかったのでしょう。
誠心誠意おこなっても報われないこともあります。しかし、それが人の命に関わることとなると心に重みがぐっとかかります。医師は、患者を治そうとして懸命に努力されるのでしょうが、人の天寿は変えることはできず、見送らねばならない経験をされるのでしょう。それは、私が抱いた虚しさとは比べものにならない虚脱感であろうと想像できます。
人の運命は、誰にも分からぬもの。分からないから生きていけるのかもしれません。年始から暗めの内容になってしまいましたが、この一年がよき年となるよう祈ります。今年は、巳年。蛇は弁財天のお使いで、財とかかわる生き物です。脱皮しながら成長する生き物です。日本再生を蛇に託したいです。
それでは、最後にわが神社の「巳ちゃん」をご紹介します。去年の夏に撮影しました。燈籠に寄りかかったままの、しかも頭から尻尾の先までのこんなに美しい抜け殻は見たことがありません。
お散歩する「巳ちゃん」です。皆様もご参拝のときに出会えるといいですね。
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