「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
「うつくしよぉ〜」
サクランボの季節になると、いつも思い出す言葉です。
神社にあるサクランボの木は、亡くなった祖母の畑にあったものを移植したものです。木は今よりも小さかったものの、祖母がしっかりと肥料をやっていたおかげで実のつき方はよかったのですが、残念ながらあまり口にした覚えはあまりありません。それは、小鳥たちが実の色づく時期をよく知っていて、「明日あたりが食べごろかな」っと思った翌朝には、美味しそうに色づいた赤い実はすっかりなくなっていたからです。
その話をするとき、祖母は言いました。
「とりが み〜んな うつくしよぉ〜 たべてくわ」
神社に植え替えられたサクランボも、やっぱり実が色づくと「うつくしよぉ〜」食べられてしまっていました。でも、ちょっと悔しいので、昨年、初めて食べ頃の時期に網で覆うようにしました。居ながらにして、佐藤錦のサクランボ狩りができるわけです。自然に任せたままなので、実は、祖母の畑にあるときほど大きくはないのですが、果物の宝石と言われるだけあるキラキラと光るみずみずしい赤い実は、頬張ると小さいながらもサクランボの味をちゃんと主張して、少し甘くて酸っぱいです。祖母のことを思い出しながら大切にいただきます。そして、初物のお毒見をさせていただいたのちは、御裾分けで鳥たちに進呈します。すると、二日もすれば、まだ青かった実もあったはずなのに「うつくしよぉ〜」なくなっています。
言葉というのは、いつまでも心に残り、そのいい手の雰囲気までもとどめるものだと思います。「鳥がすっかり食べてしまう」では、祖母への懐かしさはわきませんが、方言であることがその言葉の味わいを一層濃くし、その人らしさが滲み出るとしみじみと感じ入ります。
実際、自分ではあまり方言を使っていないと思っていても、意識してないところで既に自分の言葉になっているものです。つい先日知ったのですが、その場を去るときに「お先にご無礼します」と使っていますが、これは全国区ではなく、瀬戸独特の言い回しだと聞いて驚きました。これまで「ご無礼しますとは、無礼なヤツだ」と思われていたかもしれないということでしょう。
ということで、今月は、これにてご無礼します。
掲載の記事・写 真・図表などの無断転載を禁止します。
著作権は深川神社またはその情報提供者に帰属します。