八百屋さんを惜しむ

2012/04/20

3月31日で一番近所にあった「八百新」さんが閉店した。
子供の頃から慣れ親しんでいた八百屋さん。
先代のおじいちゃん、おばあちゃんのときから、お使いに通ったりした。
よく世話になり、かわいがってもらったところに、よそから聞こえていくといやだから、と店をたたむ話を告げられたときは、正直なところ驚きもしたが、それ以上に寂しくなった。
「時代の流れだ。ほんとに厳しいから、しゃあない。」と。あれこれ考え上げた末の苦渋の決断だったのだろう。

歩いて2分の八百屋さんは、頼りになった。「あっ、ねぎがない」と思えば、つっかけで買い足しに行けるし、今夜はちょっとおかずに困るというときは、手作りのお惣菜が食卓を助けてくれた。そして、何よりもお店に行けば、「いらっしゃい。今日は何しようかね」と元気に声をかけてくれて、何も言わなくても家族の人数分に見合ったものを用意してくれた。神様のお供えの野菜や果物は、いつも形や大きさの良いものを選んでくれた。ありがたいことだ。

先日、テレビでどこだったか忘れたが賑わいのある商店街が中継されていた。その中でマグロの解体を客の目の前でする老舗の魚屋が紹介され、店のこだわりの伝統の一つに「普通はあるはずのものがない」とアナウンサーが言うと活きの良い魚がズームになった。何がないか、魚の名札の横に値段がない。こだわりとは、お客さんとのやりとりの第一歩がそこにあるからとのことだった。

スーパーは、品揃えも豊富で、一度に何でもそろえられるし、一々店の人に尋ねることもせず好きに選べばよく便利である。値段も手ごろなものある。でも、昔ながらの八百屋さんや魚屋さんのような味わいはない。

顔を見れば、その家族構成や好みまでも覚えていてくれて、「今日は、これがいいよ」とすすめてくれたり、みつくろってくれたりする。子どもがお使いに行けば、みかんの一個やバナナの一本をくれる。ちょっと買い物に顔を出さないと「最近、いりゃあせなんだけど、どうかしやぁたか」と気にかけてくれる。
そんな触れ合いがあったかかった。

タンポポは、黄色い花が綿毛になって種を運んでいく。八百屋さんもタンポポみたいに明るかった。おいしいものといっしょに心にぬくもりを運んでくれた。ずいぶんお世話になりました。ありがとう、八百新さん。

境内のタンポポ

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