「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
梅雨は不思議なキノコの季節。ふと見上げると、某有名菓子みたいなキノコが、緑の幹につくつくと出ています。そして、去年の夏の名残の蝉の抜け殻が傍らに一匹。境内には、他にも様々なキノコが顔を出しては消えてゆきます。う〜ん、でも、どうもいずれも食する勇気はないかも、、、、
ある日曜日、お祓いに出かけた帰り道の山口町辺りの橋の歩道で、ビニール袋を片手に歩く男性を見かけました。片手にビニール袋、片手にリードを持っていれば、イヌのお散歩姿でよく見かける姿です。が、どうもちょっと動き方が違います。しゃがんでは、何かビニールに入れている様子です。車ですれ違いざまに、えっと思いました。かがんではビニールに入れていらっしゃったのは、たばこの吸殻です。それも、素手で一つ一つ拾っていらっしゃいます。頭が下がる思いでした。
神社の境内には、禁煙の立て札があります。しかしながら、駐車場や溝の中に吸殻を発見することは、度々です。喫煙は個人の嗜好ですから、それに対してとやかく言うつもりはありませんが、後始末は、社会生活の礼儀ですので、一言もの申したいです。
そうは強く言ってみるものの、、、
幼稚園の甥っ子と道を歩くとき、ゴミを見つけると躊躇無く拾おうとします。それも、やはり、素手で。私も、神社の中や周辺は、もちろん、毎日掃除をしています。しかし、歩いている道端でゴミを拾えるかというと、本当に情けないですが、見て見なかったことにしている自分がいます。しかも、幼い子が、ゴミが少々汚れていても拾おうとするのを、「汚いから、いいよ」と制止してしまっているのです。
こどもは、無心、無垢な心で思ったままの行動ができます。
子供のときは、虫でも蛇でも平気で手で触れたけど、大人になってからは、どうもに無理だという話はよく聞きます。これも、怖いとか気持ち悪いとか、様々な気持ちが行動を抑制しているのでしょう。大人は、生きていくうちに色々な垢で汚れてしまっているのだと思います。素直な心であれば、どんなことでも受容できるし、行動に移せると思います。徐々に徐々に心を囲っていった殻を破ることは容易ではありませんが、少しでも固い殻を脱いで良心に従った行動をしたいものだ、せめて吸殻だけでも拾えるようになりたいと反省するねぎどんでした。そして、永田町辺りの住人の身に纏った絡みついた殻も本当に蹴破っていただきたいとも思う日々です。
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