「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
桜の花は、美しく、少しかなしい。今年の桜は、なお一層、はかなく、つらい。毎年同じように咲いているだろうに、毎年ちがう。
風に舞う桜の花びらは、何処へか寂しい骸を弔いにいかん。
福島第一原発の事故で水の力を思い知らされた。原子炉と使用済み核燃料を冷やす作業が危機的状況下で、最重要課題であり、それは水の力によるしかない。人類の英知、科学力、技術力をもって作られた原子量発電所でありながら、最終的に頼るのは、水の力、つまり、人工的なものではなく自然の力である。
イザナミノミコトを追って黄泉の国へ行ったイザナギミコトが、死の世界の穢れを落とすために、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(あはぎはら)で禊をされたことが、神道の禊の基となるわけだが、神代の時代から現代に至っても、浄化の効力を持つのは「水」であることに感動を覚える。そして、人の命も生活も何もかも一瞬にして飲み込んでいった大津波に、所詮ちっぽけな人間であることを再認識する。
去年の夏、石上神宮で禊の研修に参加したときのことを思い出す。御神域の杜の中にある禊場は、見上げるとすぽっと抜けるように遥か遠くに見える高い木々に囲まれた所に天空がある。夕暮れ時に、禊を始めるやいなや一斉にヒグラシが鳴き出した。降り注ぐヒグラシの大合唱の中、ひんやりとした水に肩までつかると自然と自分との境がなくなったような感覚が強烈である。
手を洗う、口をすすぐ、汚れたものは洗うのは、水より他にない。
きっと科学技術が更に進んでも、浄化することができる物質は、同じであろう。
水のありがたさを今一度真摯に受け止めて、日本の誇る自然の力、水の力を大切にし、保水力と高め安全な水を後世に残さなければなければならないと思う。
人の心も禊により清浄となる。
涙も心を浄化してくれる。
この一月、どんなにたくさんの涙が流れたか。
その涙の分だけ、日本人は清く、強くなっていくように思う。
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