「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
師走も15日ともなると、だんだん気が焦ってくるのは毎年のことです。元旦までの種種雑多なことは、頭の中を駆け巡るのですが、実際には遅々として進まずと、毎年同じ常套句で終りそうな気配です。
さて、一年の締めくくりは、今年一番印象に残った言葉と人物をあげます。ただし、すみませんが、まったくもってねぎどんの趣味、主観に凝り固まっていることをお断り申しあげます。
「名のある人には、責任がある」
これは、11月25日に主賓のいないお祝いの会で、来賓の方のお一人が、その不在の主賓に必ず伝えていただきたいとおっしゃった言葉です。そして、その名のある責任を、見事にこなしていらっしゃったのは市川団十郎さんでした。当日の朝、麻央さんからの連絡で海老蔵さん宅に駆けつけ、血まみれになり人が変わったように腫れ上がった顔の息子を見送り、国立劇場の舞台に立たれ、夜には二人を祝う(はずだった)会を迎えられた団十郎さん。晴れの祝いの日に息子が起こした不祥事に、集まった大勢のご贔屓の皆さんへ本当に会わせる顔がなく、さぞ肩身の狭い思いをなさっていたと思います。また、一方で、普通に考えても息子が暴行を受けた真相を知りたいとか、その相手に対しての憤りなどもあり心中穏やかならぬことだったのではないでしょうか。
落ち着きながらも、少し言いよどんだようにご挨拶され始めた姿は、舞台の上に立たれた役者とは異なり、一人の息子の父親として、すばらしい嫁を迎えたことをまずは非常に喜び、そして、息子のとった無責任な行動と突然の事件を真摯に受け止め、役者としての修業は、本当にりっぱにしているが、人間修業が足りないと、謙虚にお詫びをされました。
役者というのは、様々な役になるわけですが、演じる人が違えば、歌舞伎のように型が決まっている同じ役でも異なる味わいのものになります。何がそうさせるかというと、やはり、役者そのものの素の人間力であろうと常々思います。これは、演技の話でなくとも、会社でも何でもトップが代われば、全体の雰囲気が変わるのとも同じことでしょう。一挙手一投足も発せられる言葉も、全て表れいずる基(もとい)は、個人の内なる処からです。
ぶれのない人間性。
ともすれば、主賓不在で文句の一つも出そうな会を和やかな雰囲気に納め、人の心をもまとめられたのは、まさに団十郎さんの胆力、人間力だったと感じ入りました。
ねぎどんに名はありませんが、深川神社という大きな名をお世話させていただいていることには責任があると、自分を振り返って考えさせられました。神様を頼っていらっしゃるご参拝者の皆様の心にかなうよう、どれだけのことができたのか疑問が残り、反省も多々あるところです。が、とりあえずは、何とか形ばかりではありますが、この一年間もぶつぶつとつぶやき続けられたことに、ほっとしております。ありがとうございました。
来る新年も皆様に幸多きことをお祈りいたします。
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