「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
早くも一年を振り返る時期になってしまいました。
恒例の今年を表す漢字「新」が発表されましたが、思っていたものだったでしょうか。ねぎどんは、ぴたりと当たりました。では、我が一年を表すとしたらどの漢字になるのか考えてみると「痛」でしょうか。
忘れもしないあのマイケル・ジャクソンがこの世を去った日、ギクッと衝撃が腰に走ってから、ずいぶんと痛みに悩まされた半年でした。「何不自由なく動けることは当たり前。でも、それは当たり前でなくなったときにしか、本当のありがたさが分からない」ということは、頭で分かっていても身をもって経験しなければ真に迫らないと痛感しました。
最近心に痛かったのは、近所にお住まいで熱心にお参りにもいらっしゃる、おそらく90歳ぐらいになられるご婦人からの一言です。狭い路地でその方とすれ違ったとき、私は大きな荷物を一抱え持っていました。杖を突いてゆっくりと歩まれるその方は、私が道を譲ろうと立ち止まったところ、「私は急ぐ必要がありませんから、どうぞ」と、さらりとおっしゃいました。私はきっとつかつかと足早に歩いていたことでしょう。帰ったらあれをしなきゃ、これをしなきゃと頭の中でめぐらせながらいたことでしょう。
その方のなんともたおやかで、豊かな物言いに人生の深みを感じました。今更生き急ぐ必要性もない、その日その日が穏やかに流れていく、そんな印象を受けました。自分が同じ年齢になったとき、そのように人の心にやさしく響く表現ができるだろうか。年を重ねればそうなれるものではなく、ふだんからの心のゆとりのようなものが結実するからではないだろうかと、ついつい目の前の雑事、自分のことばかりに向かってしまい、周りを見回せない日常生活態度をかんがみてしまいました。
また、ある料亭の箸袋に見出した粋な言葉は、これまた味わい深いものでした。その箸袋には、わさびの絵が描かれました。生わさびは、清々しい旨みがあり、鼻先にツーンとくるのも独特のおいしさであります。鼻にツーンとくるのはいいけれど、鼻をツーンとした態度はいただけませんよね。
わさびの絵に添えられていたのは「ツーンとしてないで わらってごらん」。これまた当たり前でしょうが、妙にそうだ、そうだと納得してしまいました。いつもニコニコは、できそうでできないことです。どちらかといえば仏頂面しているんじゃないかと鏡を見てしまったねぎどんです。笑えることも、心にゆとりがあるからです。
来年の指標ができました。「ゆとりと笑顔」
ゆとりをもってコラムも脱稿することにいたしましょう。
皆様にとって平成22年が佳き年、幸多き一年となりますようご祈念申しあげております。初詣では深川神社へ!ゆとりなく顔引きつらせ、せわしく駆けずり回って皆様をお待ちいたしております。ねぎどんの計は、元旦で崩れる?
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