「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
この世のものとは思えない色合いでした。
なんとも幻想的で、柔らかで湿り気があるのが艶かしく、そして優しい色。目だけビーズのように真っ黒でかわいいらしい。
このセミは何を間違えてか手水舎の柱の土台の石につかまって脱皮していたのです。しかも、夕刻ではなくもう午前10時半を過ぎていました。見つけたのは母で、ねぎどんも同じ場所で水を汲んだり雑巾を洗ったりしていたのですが、意外と気づかないものです。少々時差ぼけのセミ君ですが、気づかれないからこの場所を選んだセミはやっぱり賢いのでしょう。
私は小学生のときに殻を破って出始めるところから見て感動したそうですが、残念ながら自分自身はよく覚えていないので、出てきたばかりのセミを見るのは初めてといってよいでしょう。羽根が乾くまでじっとしていることしかできないセミを、いつ飛ぶかとじっと見ていました。せいぜい二時間ぐらいでお昼頃には飛ぶだろうと思っていたのですが、全く飛ぶ気配はありません。小学生の夏休みの自由研究ならいざ知らず、さすがにセミに付き合ってばかりもいられません。
ヒヤッとする一瞬も!しゃがんで観察していた甥っ子が、ふざけているうちに転んで、その拍子にセミを蹴飛ばしてしまったのです。ころりんと力なく落ちたセミは、真っ白い腹を見せてひっくり返っています。もうだめかと思ったのですが、モゾモゾと肢を動かしているので小枝を差し出すとしがみつきよじ登ってきました。ほっと一安心。安全な木の幹にそのまま移してやりました。それが午後1時半頃のことでした。羽のふちはまだ薄緑が残りますが、全体的には木の幹と見分けが付きにくいアブラゼミの色目になってきています。が、まだ飛びません。
ちらちらとセミがいるかどうかを見に行ったり来たりしつつ、運のいいことに飛び立つ瞬間に立ち会えたのは、すでに午後4時近かったです。おおよそ半日以上かかっています。いやはや大変な一生の一大事です。
境内は今、セミの大合唱。せみ時雨とはうまい表現で、佇んでいると頭のてっぺんから降ってくるようにその声に包まれます。
まだ夏本番になる前の梅雨明けもしないうちに急に暑い日があると、のこのこと出てくる幼虫がたいてい一匹ぐらいいます。「まだ早いよ。」と声をかけたところであとの祭り。時節を間違えた幼虫は気の毒になります。だから抜け殻を見ると「ちゃんと成虫になれたんだな」と嬉しくなります。
短い一生を終えて天を仰いでころがっているセミ。よく見ると羽と頭と胸辺り以外はありません。アリが運んでいくのです。命をつなぐ循環が自然の尊さだと思います。
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