「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
大祓い、茅の輪くぐり神事を目前にして、困ってしまいました。
忘れもしない6月25日は、朝からどうも体がこわばっていると思ってはいましたが、ふだんとかわらず社殿の拭き掃除を終え、さあ雑巾をゆすぎにいこうと、バケツを持ち上げようとした瞬間、事件(おおげさな…)は起きました。ここまで書けば、何が起こったのかはお分かりでしょう。
「ギクッ!」
えっ、ひょっとして、まさか、と内心穏やかでありませんでした。ぎっくり腰初体験。本当に「ギクッ」という鈍い音が体の内部でしたことにも冷静にびっくりしました。お陰様でその場で動けなくなるような、はたまた這ってしか動けないようなひどい状態でないのが不幸中の幸いでしょう。
しかしながら、ぎっくり腰は本当にこたえます。戸をあけようとして取っ手に手を掛けて動かそうとしただけで痛い。四つんばいで雑巾がけをするのは難行苦行。重いものは持てないのは当たり前ですが、箒を持つことも、草一本抜くことも、とてもじゃないがご遠慮申しあげたい。何もできない。
ふだん私たちがご奉仕するのは、一に掃除、二に掃除、ご祈祷をあげている時間よりも、掃除に費やす時間のほうが圧倒的に割合は大きいです。境内美化はお参りの方々のためだけはなく、神様の御神威を高める最大のご奉仕にもなります。それなのに、何もできない。これは、本当に悲しいことです。
ご祈祷するときは拝まなければなりません。頭を下げる深さは、その所作によって異なり、拝む角度は腰で採りますからかなり負担がかかります。だから当然その角度が甘くなってしまいます。これもやはり神職として情けないことでして、ご祈祷を受けいらっしゃるお客様には申し訳ない気がします。
いつもしていることが、いつも通りにできないのは、たとえ指先にちょっとした怪我をしただけでも苦になりますが、腰にいたっては痛いほどに身にしみます。すいすいと自由に体を動かせることの心地よさを今更ながら素晴しいことだと感じます。動くときに一動作でできることを、どうしたら痛くないか考えながら二段階にも、三段階にも分けて動くことになり、これは気持ちの上でストレスになります。
ところで、漢字は象形にしても表意にしても実によくできていると折に触れ思います。「腰」という字は、肉月に要と書くとおり、人の体の要です。要という字は、腰に両手をおいて引き締める様子と女性の腰が細くくびれていることから女の印がついたそうです。(「漢字なりたち辞典」より)手で戸を開けますが、実際は手だけでは開けられず、ひねって支える腰があってこそはじめてできることであり、すなわち人のあらゆる行動は全て腰が支えているという漢字の真髄を身をもって知りました。
当たり前にできることは、当たり前にして過ぎていきます。当たり前でなくなったときにその意義なり価値を知ることができます。木を眺めているとその枝振りの立派さや緑の美しさしか目に留まらず、しっかりと大地に張っている根があることにまでなかなか思いは及びません。神社にはお年寄りの方が多く参拝されますが、皆さん動きは緩やかで、足が痛いやら腰が痛いやらの話題には事欠きません。そんな痛みも少し分かりやすくなったような気がします。人は経験したことからしか学べないのですね…。
悲しき初体験ですが、ねぎどんはちょっといい勉強をしています。
さて、そんな腰で6月30日の神事がご奉仕できたかって、それが有り難いことにできたのです。神の御業は整体の先生の御技にありました。整体も初めてで感動を覚えました。その話はまたあらためて。
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