「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
今年は一気に秋。それも初秋を通り過ぎて秋も半ばぐらいの気温の日がやってきました。10月1日で衣替えですが、例年というのか、ここ数年というのかまだまだ半袖で過ごしているので、この気候の変化にどうも調子が狂うのではないでしょうか。
さて、先月のコラムでは感動した音楽の話を書きましたが、今月は最近ある雑誌を読んで非常に心に痛い言葉に出会いました。グサッと突き刺ささり、心が動くことが感動ならこれも感動と言えましょう。それは、小学生のときに事故で両腕を失い、口で筆をとる日本画家、南正文さんの人生についての記事の中にありました。絶望の崖っぷちから自分で這い上がる道を照らした師で両腕のない大石順教先生が、南さんに繰り返しおっしゃったという言葉。
「心の障害者にならないように」
足が片方ない、両腕がない、目が不自由であるなど、目に見える身体の障害は誰が見ても明らかです。もし人の心が目に見えるとしたら、果たして自分の心はどのような形状をしているだろうか、想像するだけでも恐ろしいです。仮に心に形と色があり、光り輝く美しい色をした丸いものだとすれば、自分の心はとても球形を保っているとは思えませんし、きっと輝いてなどいないでしょう。恥ずかしながら、おそらくボコボコと凹みがあり、汚れた鈍い色をしているに違いありません。
思うに身体障害という自分自身の境遇に、心まで卑屈にならないようにとのお言葉なのでしょう。体に不自由はないが、心が歪んでいる心的障害者は、身体障害者の数をはるかに上回るのではないでしょうか。我が身は鏡に映さねば見えませんが、我が心は鏡に映しても見えません。しかし、見えない心は振る舞いや発する言葉に表れると思います。鏡で顔を見るように、自分の心の形を見る必要があると痛切に感じます。
ところで、秋といえば収穫の季節。頭をたれて刈り取りを待つ稲も台風の接近で被害が心配されます。日本人が古来より大切にしてきた米。人の犯す罪はたくさんありますが、大祓(おおはらえ)の祝詞には、田んぼの畔を放つこと、灌漑用の溝を埋めること、田の作業を妨害することも罪としています。神社に納めるお金を包む表書きには「初穂料」とも書きますが、その年初めて採れる稲穂は、まず神様に捧げたことからきています。そして、初穂をお供えする新嘗祭(にいなめさい)の祝詞の中には、農作業に励む人が、肘まで水につかり、すねには泥をつけてまでして一生懸命に作りました、と書かれています。日本人にとって、稲作は生業であり、米は生きる糧であり、神に捧げる尊く貴重なものであります。
事故米を裏工作して不当に流通させる事件は、日本中を憤りと不安の渦に巻き込んでいます。もし心が目に見えるとしたら、この事件を起こした人の心は、一体どんな形と色をしているのでしょうか。米をないがしろにすることは、すなわち日本人としての心も誇りも全て失くしたようでなりません。
つまり、ないものは見えない、それが答かもしれません。
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