「ねぎさん」と、たまにお年寄りから呼ばれます。 禰宜(ねぎ)は、昔は神主さんの下、祝(はふり)の上の神職です。
「ねぎ」は、祈ぐ(ねぐ)からきています。まぁ祈るのがお仕事です。が、実は、毎日の一番の仕事は、お掃除であります。
それはさておき、時々あれこれとつぶやくのでお聞きください。
間もなく迎える入梅を前に、今は、青々と広がり、生き生きと茂る青葉が美しく、汗ばむ昼間はその木陰が恋しい季節です。しかしながら、そんな明るい五月は、まぶしさに反比例するように心を曇らす様々な事件が後を絶ちませんでした。
ほんとに新聞を見るのが辛くなる、どうしてこんなにも暗い記事しかないのだろうと暗い気持ちにさせられたのは、何もねぎどんだけではないと思います。
子供の虐待死、母親の惨殺、友人のリンチ、赤ちゃんポストに置き去られた幼児、立てこもり事件での警察官の殉職…もう以前にどんな悲惨な事件があったのか忘れてしまうほど次から次へと驚きを隠せないことが起きる世の中です。
昨年、清水寺の貫主さんが選んで書いたその年を象徴する一字は、「命」でした。この「命」という漢字は、一体どんな意味を持つのか調べてみました。
「漢字なりたち辞典」(教育社)によると、「命」は初の三画目まで、つまり上部の部分(集めるしるし)、そして口(くち)と卩(ひざまずいた人)を合わせた字だそうです。人々を集めて、王様が神の思し召しと自分の言いつけを告げること、命(メイ)、命じることを意味します。そして、人は神様の心によって生まれたと昔の人は考えたことから、生きていることそれ自体が神の思し召しであるから、命(いのち)という意味にもなったと説明されています。
「命を落とす」「命拾い」は、命が自分のものであって自分のものでないという考えが根底にあっての表現だと分かります。安産祈願にいらっしゃる妊婦の方には「お子を身ごもられたのは神様の思いはかるところなので、体を大切にし元気な赤ちゃんを産んでください」と申し上げています。医学が進歩して生命の誕生を操作できるほどになって、医者はそれを成功と呼ぶものの、やはり、命を宿すか否かは決して人間が決定しているのではないと思います。
これから虫の多い季節。気の毒だとは思いますが、自己防衛でやはり虫退治してしまいます。けれども、ふとカフカの「変身」を思い出し、ひょっとしてお前は○○さんだったりするのかしら、まかり間違っていたら私はゾウリムシに生まれていたのかしら、と思うと妙な気がしてきます。一寸の虫にも五分の魂との諺には命への慈しみがこめられていると思います。
人間にとっての害虫までの命を救うことができませんが、自分の命も自分一人の命ではない人の命、他人の命もその人一人の命でない人の命であることを、もっともっと大切にしていかなければ、大切さを青少年に教えなければならないとつくづく考えさせられました。でも、考えるだけでは何も変わりません。具体的な一歩を踏み出さなければならないと…。
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